見出し画像

聖一国師その2

(写真は、聖一国師生誕の静岡市戸栃沢の米沢家に咲く大枝垂れ桜)
聖一国師は建仁二(1202)年駿河国阿倍郡大川村栃沢(現静岡市)に生まれ幼名を龍千丸といいました。
たいへん聡明な子で、二歳にして人の言葉を聞き分け、年を重ねるごとにその行いや言葉は異彩を放っていた。
龍千丸が生まれたのは、源平合戦の帰趨が決まり敗者の平氏一族は全国に落ちのびた、そんな時代です。

平氏一族の娘・米沢は、京都のさる高名な宮家につかえていましたが、入洛してくる源氏の詮議を恐れ都落ちして東国へ逃れた。

 駿河国安倍川辺りまで来ましたが、東国は関東武者源氏の勢力圏、追求を恐れ安倍川の支流藁科川を北上した。栃沢の里で身を隠すには恰好な隠れ家を見つけてそこに身を潜めます。
見知らぬ土地で将来の不安に明け暮れた頃、都から彼女を訪ねて平家方の青年武士がやってきたのです。
彼女は大いに喜び夫婦となり、坂本姫という娘をもうけたのです。

 坂本姫は宮仕えの経験を持つ雅な父母のもと、しとやかに美しく育つものの、好事魔の多し、16歳のときに父母を同時に亡くしてしまいました。

都落ちの寄る辺のない辺地で坂本姫は、天涯孤独の身になりました。

 姫は母の形見の弁財天を朝夕拝み、墓に香を焚いて菩提を弔う日々の中、やはり関東から逃れてきた平家の残党・上総介忠清の孫にあたる五郎親常という若者と出会います。同じ不遇を囲う二人は結ばれたのです。

 2人は栄華を誇った都の殿上人平家一門のプライドを捨て、栃沢の地で一農夫として生きる選択をしたのです。
 唯一心配したのは龍千丸の将来でした。
駿河の辺鄙な山奥であり府中の街なかからも遠く、もちろん学問所は近くに見当たりません。

当時庶民の子弟が学問し世に出るには僧に成るのが最善の道でした。
海外からもたらされる最先端の学問領域でもあった仏教へ二人は関心を深め、子が授かったならば僧侶にしようと心に決めます。
敵である源氏は頭領の源頼朝が、鎌倉に武家政権の幕府を作り、都にも探題が置かれ平家一門の出世は絶たれていました。
末法の世の中、せめて子供だけでも世に出そうと、府中の久能寺に5才の我が子を託したのです。

久能寺の僧正・堯弁大徳師は龍千丸に「円爾」の名を授けます。

 円爾は1を聞いて10を理解するといわれるほど智能に長け、出身地にちなんで「栃小僧」=「とんち小僧」と呼ばれました。
 円爾13歳のとき父の親常が亡くなりますが、実家には戻らず修行に邁進し、18歳で滋賀の三井園城寺に入って剃髪。奈良東大寺戒壇院で受戒し、正規の出家となります。
 園城寺で大乗・小乗の教えをほぼ修得し、これに飽き足らなくなった円爾は、栄西禅師が伝えた禅に惹かれ、栄西の法弟として名高い栄朝がいる関東上野国・長楽寺の門をたたきます。

次いで久能寺に戻って真言の三密(真言宗の秘密の三業)を授かり、さらには鎌倉寿福寺の蔵経院で修行。

『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』という禅宗の根本経典の講義でその道の権威と言われる高僧に疑問点を質問したものの相手は答えに窮した。
「日本で権威といわれる人でさえこの程度ならば、宋に留学するしかない」とその時留学を決意した。

 さらに鎌倉での鶴岡八幡宮八講会で “三井の大鏡” と尊敬されていた講師の三位僧都頼憲に詰問を繰り返し、論破してしまいます。

円爾は「この鏡は鉄でなければおそらく瓦で作ったものか」と頼憲を侮蔑し、講義に参加していた僧徒たちは顔色を失う。
頼憲は僧徒たちに「怪しむな。これは文殊・舎利仏の生まれ変わりの言葉であり、私の誤りを指摘されたのだ」と諭し、一同は円爾に尊敬のまなざしを向けたとというエピソードもある。

このエピソードには、円爾の若気の至りとも言える臭気もあるがそれほどに最新の仏法を知りたいという意欲が勝っていたのだろう。
 円爾が念願の宋留学を果たしたのは34歳のとき。阿育王山、天童山など禅学の聖地を訪ね廻り、杭州の西北にある中国五山の一つ・径山(きんざん)萬寿寺の無準師範に師事します。

 無準師範(1177~1249)は後に鎌倉円覚寺を開いた無学祖元はじめ中国・日本の禅僧を数多く育て、日本の禅宗の父とも言われる傑僧です。

文字通り真の師を得た円爾は6年間みっちり修行をした。
 無準も彼の非凡な資質を見抜き、側に置いて直に教育し、印可(悟りの証明)を授けます。
 40歳で帰国した円爾は、名高い無準師範の印可を受けたことが評判を呼び、九州各地に創建された禅寺に開山として迎えられます。
 このとき禅道のみならず、中国から茶、陶器、織物、麺、饅頭などの製法を持ち帰ったのです。
 円爾が日本に帰った翌年に萬寿寺が火事に遭い、心配した円爾が無準のもとへ材木一千本を新調して送ったその返礼状が、東京国立博物館に『与聖一国師尺牘(せきとく)』という板渡の墨跡として保管されており、板に書かれた珍しい墨跡で国宝に指定されています。

 無準はまた博多に承天寺が建つと諸堂に掲げる山額や諸碑のための文字を書いて送り「文字が小さくて寺院と釣り合いが取れなかったら書き直すから知らせておくれ」とまで書き添えたとか。円爾と無準の文物交換はこれ以外にも数多く、師弟の絆の強さを思い知らされます。5歳で父母と別れ、肉親の情愛を知らずひたすら求道に邁進してきた円爾にとって、無準は理想の師であると同時に、父親を感じる存在だったのでしょう。
聖一国師その3へ




 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?