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sempre junto、ずっと一緒

発端は、一枚の絵だった。自分で描いた、特にうまくもないー。

記録映像作家の岡村淳監督に、ある時、絵を描いて下さいとおっしゃって頂き(アート好きな監督は、素人の絵も面白がって下さる)、しかし私はここ数年、意に反して夜に全く起きていられなくて、そして日中は仕事をしているので、家事や子どもの世話以外はほぼ寝ているという日々をおくっていたため、いつか描きますとお答えし、何か月もそのままになっていた。

ところが、ある日、夜中の1時過ぎに突然むくりと起き出しー夜に起きられるのは本当に本当に珍しいー、描き始めたのだった。なんとなく題材に選んだのは、以前にオンライン上映会で拝見した『赤い大地の仲間たち フマニタス25年の歩み』の風景。描き上げてすぐ、岡村監督にこれは何の絵でしょう?とちょっとふざけて、メッセンジャーでお送りして、早朝、再び眠りについた。

起きてまた岡村監督とやりとりを再開するのだが、そのやりとりから、1ヶ月ほど前に突然亡くなった、赤木和文さんについての話題になった。赤木さんは、やはり岡村監督の作品を追いかけ、地元岡山で上映会も開催されている方だった。

やり取りの中で、岡村監督に、赤木さんと面識があったのか尋ねられ、ギャラリー古藤の監督作品上映会(「岡村淳監督ドキュメンタリー映画まつり」)で隣の席になったのです、とお答えした。新型コロナパンデミックが始まりかけていた頃、国間での行き来が禁止されるぎりぎりのタイミングで実現した上映会だった(岡村監督はブラジル在住)。その時のことや、赤木さんのことを懐かしんでいるうちに、監督が3年前でしたね、とおっしゃり、調べてみたら、なんと、3年前の、正確に同じ日のことだったことが判明した。2020年1月19日。

赤木さんー。

隣り合って座っている間、(自分のことは棚に上げて)なんだかちょっとむさくるしい感じの人が横にいるな(赤木さん、ごめんなさい)、位の印象だったのに、何故かその後も、私の中で、忘れるどころか存在感があり続けていた人だった。

一度隣り合い、言葉を少し交わしただけ。でも、岡村監督の作品が好きという共通項があった。赤木さんの多くはないSNS投稿から、彼の好きな、本やアートや場所や、、、を垣間見、(岡村監督の言葉をお借りすると)信頼のおける「目利き」であると感じていた。彼の好きになるもの、彼の言葉のチョイス等から、その優しい眼差しが想像され、とても繊細な人柄が伝わってくるようだった。そんな彼からたまに、自分のSNS投稿になんらかの反応を頂くと、赤木印のお墨付きをもらった様な気がして嬉しかったものだ。

そんな赤木さんが、年末、突然亡くなったと、岡村監督から伺い、少なからぬショックを受けていた。

赤木さんを偲ぶやりとりの中で、赤木さんが岡村監督のご著書について書かれた投稿が記憶にあったので、探して監督にお送りした。赤木さんがどんなに岡村監督を慕い尊敬されていたか、感じていたので、お伝えしかったためだ。そこには、彼と岡村監督の邂逅のいきさつが記されていた。岡村監督の著書に出会ったこと、それがきっかけでどうしても監督に会いたくなり、初めて出かけた岡村監督作品の上映会で観た2本の映画のこと。そのうちの1本は、『赤い大地の仲間たち』だったー私が絵に描いたのと同じ作品だ。

この投稿では赤木さんはこの様に書かれている。
(引用はじめ)
「側から見れば片や哀れな老人、
片や聖人君子のように思えるかもしれない。
けれどそうじゃない。
たとえ何があろうと、
自らの人生を生きて、生きて
生き抜いた、生き抜いている、
その歩みには等しく価値がある。」
(引用終わり)

別のSNS投稿の中では、赤木さんは、先述の、3年前の「岡村淳監督ドキュメンタリー映画まつり」の時の事を書いていた。これは、練馬にある「古美術&ギャラリー古藤」さんで1週間にわたり、毎日3本の岡村作品の上映と日替わりで岡村監督と縁のある方をゲストにお迎えして話を伺うという企画だ。ご自分の作品の上映には必ず立合うという信条をもつ岡村監督も、もちろん毎日いらっしゃる。(赤木さんは、以前ご自身の開催された上映会で快く文章の引用を許してくださった星野智幸氏に会ってーこの日のゲストとして参加されることになっていたーお礼を言いたいという気持ちから、とても悩んだ末、この日の上映会のため上京されたという。きっと、赤木さんにとって、忘れられない特別な日になった事だろう。)

まつりの間、毎日、岡村監督作成の日報が観客に配布されていたのだが、1月19日の日報には、この日上映された作品『60年目のビデオレター』に登場する、10代で自死し既に亡くなっている少女について書かれていた。そのくだりを、赤木さんは引用して紹介していた。

(引用はじめ)「ひと通りの取材、資料の撮影を終えてサンパウロのわが家で深夜にひとりで映像の編集作業を続けているときです。アマゾンの移住地で10代半ばにして人生を閉じた少女が遺した、何枚かの白黒写真をみつめます。彼女のいのちの躍動とかがやきが伝わってくるようでした。存命ならば僕より年上の彼女。「わたしがいたことを伝えてね」。そんな言葉が聞こえてくるようでした。
はい。あなたがこの世にいたこと。うつくしく輝いていたことを伝えましょう。」
(『わたしがいたことを、伝えてね』 夢と知りせば/岡村上映会の八日間 日報 第二日目より)」(引用終わり)

「わたしがいたことを伝えてね」との言葉を、岡村監督が少女から聞き取り、それを赤木さんが紹介した、その赤木さんが、今は少女と同じ側にいってしまった。

この言葉は、今度は、赤木さんの言葉にもなったのだろうか。

赤木さんは、その後の投稿でも、岡村淳監督ドキュメンタリー映画まつりで観た『ブラジルの土に生きて』の感想の中で、こう書いている。

(引用はじめ)「「心に叶うものを焼いておしまいにしなさい。
そうしたら迎えに来るから。」
確かこんなことばだったかな?
2度目なのに
僕はまだまだ聴けていないけど、
延兼さんが敏子さんに最後に残した
自らを死して生かし、大切な人に生きる力を与えることば。
sempre junto、ずっと一緒。」(引用終わり)

「死して生きる」、赤木さんは他の岡村監督の作品(ブラジルのハラボジ)の感想にも、その言葉をのこしている。

自らの早すぎる死を予感していたのかどうか、わからない。が、赤木さんは恐らく、死を見つめながら生きるというテーマを自らの中にもっていて、岡村監督の作品の中にもそのモチーフを見つけていたのではないかという気がする。

岡村監督が、赤木さんと交流のあったある書店の方から聞いた話を教えてくださった。その方によれば、赤木さんは自分から語ることはなかったものの、自分は生と死のはざまにいるというようなことを言っていて、それについてもっと聞きたいと思っていたところ、突然の訃報に接したという。

赤木さんが亡くなられた今、彼の言葉を改めて読み聞くと、はっとする。

こんなことを考える。

こちら側とあちら側。
ひょいっとうつってしまったこと。
メッセージが、幾重もの層になってくる。
(あちら側の○○があちら側から言ったと、こちら側の○○が言ったとこちら側の○○が言った・・・、そのこちら側の○○は最初の○○のいるあちら側に合流した・・・)
誰の言葉?
誰への言葉?
こちらでの、ひとりは、あちらにいっても等しくひとりなのだろうか・・・。

ずっと開かれていなかったスケッチブック。久しぶりに絵を描いて、そのままテーブルに置きっぱなしだ。監督にとりあえず絵をお送りしたことだし、もうしまおう、と手に取り、ふとページをめくると、すぐ下にあったのは、『ブラジルの土に生きて』。3年前の1月19日、赤木さんと隣り合って座って観て、帰宅して描いた、その絵だった。
(その絵の写真を載せた、『ブラジルの土に生きて』の私の感想を、「!」マークと共に赤木さんがシェアして下さったのだった・・・。)

この絵を通じて、赤木さんが、私を動かして、絵を描かせて、岡村監督と連絡を取らせて、自分の生前の言葉を思い起こさせた、と考えたら、それは思い上がりだろうか。

小さな偶然の重なりに、意味を見出せずにいられない、弱いわたしだ。

でも、そんな弱い存在にも、「いいよ」と言ってくださる赤木さんだと感じ続けている。

赤木さんは、自ら開催された岡村監督作品の上映会に、この様なタイトルをつけた。
「『いまこそ、自分の時間を生きる』記録映像作家 岡村淳監督トーク&上映会」
ここでも、『ブラジルの土に生きて』が上映された。
その後の歩みを伝え聞くと、そのタイトルに自らの決意や希望を込めていたのではないか、と想像してしまう。その上映会から逝去まで4年。

色々な点がつながって、ぐるぐると、円環をなす様は、不思議で、まるで生命そのものや、その不思議さをほのかに示しているかのようだ。そこには、人々の人生の一瞬も、同じく点として、重なる。

「自らを死して生かし、大切な人に生きる力を与えることば。
sempre junto、ずっと一緒。」

一度しかお会いしませんでしたが、赤木さん、ありがとうございました。遺された言葉を胸にそっとしまって、私たちもいつかそちら側にうつる日まで、生き続けます。

写真はブラジルの国花イベー、赤木さんの投稿よりお借りしました。

赤木和文さんを偲んで
2023年1月26日





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