はがれた景色⑧

第43回すばる文学賞 一次選考にて落選

〇〇〇

一秒にも足らない、テレビの砂嵐のような雑音、鼓膜が千切れそうな轟音に包まれたのちに、応接室に通された。匂いが透明に近い白さをもち、過剰な潔癖さはこの部屋も例外ではなかった。耳を塞いだ仕草に田中は驚いていたようだった、彼には聞こえていなかったのか。
案内の女性にソファにかけるよう促された。僕らはその通りに座った。飲み物は何か要らないかと聞かれたが、特に喉も渇いていなかったので、大丈夫だと答えた、田中はコーヒーを頼み、出てくるやほんの二、三分で飲み干してしまった。
ソファは窓から垂直に向かい合うように配置されているようで、僕の左側だけが焼ける。田中は僕の前に座り、妻は僕の隣に座るよう準備が整えられた。この部屋にはあからさまな、来客用の空間に相応しい鳥の鳴き声がする、窓を通しているので本物の鳥だろうが、鳥や木までこの施設の職員なんだろう。
「なあ、おれはやっぱり外すわ。明らかに場違いだし。たばこも吸いたいし。」
僕の返事を待つ前に彼は立ち上がった。コーヒーカップが揺れる。扉が閉まると、立ち去って行った田中の痕跡さえかき消されたように、真っ白で、静寂な匂い、壁の中にとぐろを巻いているようだ。湿度のます産毛が捉える空気、むずがゆい鼻先を指でこすると、濡れた汗、汗?
ソファには気が楽になるほど陽気が差し込み、鳥や木々も業務に勤しんでいる。飲み干されたコーヒーカップからは、なみなみと注がれた跡、刻まれた過去が僕を撫でていく。苦い香りは時間を離散化し、その間にある運動を解消していくようで、しばらくの間僕は座っていた、座る以外何もしようがなかった。
蝶番は滑らかに運動し、扉を開いたんだとわかったのは、またあの雑音、耳を塞いだあの雑音に驚き、その様子に対して施設の職員が反応したからだった。妻は施設の職員を伴ってここに来たことも、それで理解した。呑気に床を叩く音。まるで買い物でも楽しんでいるような。軽く彼女は会話を交わしているようで、そのまま滑らかに連続的に、近くまで来て私の隣に座った。職員は彼女にもまた飲み物を促していたが、彼女は遠慮した。職員が立ち去る、足跡も扉が閉まると消える。鳥はより一層業務に励んだ。数羽の掛け合いは、その間の、鳴かない時間の配置により、僕たち二人を会話させる負圧の領域のに引きずり込む、それでも僕らは黙っていた、何度か鳥たちの方が根負けし、いくつかの挑戦があったのちに、僕の方から口を開いた。
「久しぶりだね、蜜。」
ほとんど聞こえてないんじゃないかと思うほど、小さな声だったが、妻には届いたようで、私の右手の甲に指をそっと置いて、冷たい凍っているような指先、溶けて手のひらまでまわって、妻は応えた。
「本当に。」
鳥は気がつけばどこかに行ってしまったようで、鳴き声は聞こえてこない、風も吹かず、木々も大人しく目を瞑っている、妻の手は力を込め僕の右手を握っている、喉が渇ききっている、水でも貰えばよかったな。妻は切り詰めたぬくもりを差し出す。僕はそっと返した。僕の手は裏返り、手の平を天井に向けている、指と指の間に妻の指が浸み込み、妻の細い、爪の伸びた冷たい、乾いた指が僕の熱を奪い、交錯する衝突。妻の方を向けなかった、見えてしまいそうだ、視力が回復するなら何にも代えがたいことだろう、浅い考えだった。
それから二人で堰を切ったように話した。僕は最近よく実家に世話になっていること、父とまた狩りに出かけたり、母がそれに不満げであること、田中とは今日久しぶりに会って、僕の前に座っていたこと。久しぶりのドライブが心地よかったこと。妻は施設での生活を話してくれた。妻に付き添ってくれた方は施設の従業員ではなく、妻の少し前に入居したルームメイトなのだという。彼女はお菓子作りが上手だそうで、日々教えてもらっているそうだ。
面会の時間は施設の職員が扉を開けたときに告げられた、田中もそこにいた。僕は妻と一緒に応接室を出た。廊下を歩き玄関に着くと、田中の車は既に止まっていた。妻は玄関口まできて、見えなくなるまで見送ってくれたとのこと。


擦れて中身が滲み出し、鼻腔を刺激してくる樹液や花々の手まねきは、どの獣がどの道筋を通ってきたのか、彼らの知る地面、彼らの知る太陽、彼らの知る風を、身の砕き方、折れ方でもってつなぎ合わせ、そこを僕らはたどるのだ。
僕と父は歩いていたが止まってもいた、それは歩くという連続運動ではなく、立ち姿勢を維持するため足を前方に投げ出している、顔にかかった蜘蛛の巣を取る。
「前方、十二時の方向、二百メートル先。わかるか?」
「ここは奴に対して風下だからね、匂ってくるよ。よくわかる。」
前の方で金属音がする、父が猟銃の準備をしている。僕は父のそばまで行き、匂いが指し示す先を、銃を支える父の左手を下から支えてその方向を辿る。匂いは、はるか地面の下を流れるようなもので、四方に放出されるその源泉を辿る、遡上してはいけない、僕の匂いもまた放たれているのだから。
父の荒かった呼吸が減衰する、聞こえなくなったとき父の匂いも消える、僕は匂い源泉の方を向きながら後ろに下がった。父の匂いは徐々に放たれるものから吸い込むものに変わる、草木の匂い、土の匂い、虫の這う匂い、獲物の匂い、僕の匂い、父はあらゆる匂いを取り込んで馴染んでいく、土と腹、腕と蔓、銃と針。溶けてゆくなか弾丸だけがそうである強度を高める、硬く鋭く尖っていった。
とても綺麗だった、月並みな言葉だがそういつも思っている、同時に消えてしまいそうな危うさを持ち、それに取り憑かれている、執着、束縛されている圧迫感もある。
無限の曲率を持った口が縛られたとき、金色の不連続な波動は周囲を警戒させる間もなく、覆いつくし、共に揺れ、父の融解は止まる。狙っていた獣は一撃で仕留めることができたのだろう、匂いは吹き出すことなく、血の飛沫が空気に溶け込み、気孔から放たれる蒸気に伴って、鼻腔の奥に消えてゆく。父はどうだ、やったか?と聞いてきたので、そう思う、と応えた。父はしばらくその場に居座り続けた、僕も伴ってそうしていた、発砲の音や衝撃を嗅ぎつけて、別の獣が来るかもしれないからだという。森の時間は緩慢に行ったり来たりする、ここでは確かな自分を持つことさえ難しい、むしろ草木や動物のように、あるものの一部として、あるものそのものとしてあることの方がよほど腑に落ちる感覚がある、そのときはちゃんと戻る足跡を残して進まなくてはいけないけれど。
どのくらいそのままだったのだろうか、木になった気がして周りを確認した、近づいてくる獲物の跡はどこからも匂いも聞こえもしない、居座る僕ら、死んだ獲物、それ以外に明らかな変化はない。
間の抜けた金属音と吐息、草をかき分ける音、大丈夫だな、という父の声は安心している。僕らは仕留めた獲物の方に向かう。音は木に葉にぶつかり跳ね返り、立体的な虚像を構築する、そのおかげで僕も森を進むことができる。僕らはいつものように仲間と連絡をとり、必要な処置を行い、帰路に着いた、決められた手順をなぞる作業に特段の思い入れはなかった、何かを思うほどの空白がなかった。

この前の害獣駆除としての熊猟に父と私は、盲目の人間を同伴させたとして多方面から大目玉を食らい、しかし結果として効率的な探索が出来ると以前から主張していたことが強引に証明されたようなことでもあり、つりあい、誰も何も見ないし、聞いてないし、今までそうあったようにこれからもそうすることとなった。母は猟にでる、その対象が熊やイノシシではなく鹿などであっても、反対し、僕が見えていなくても一人で暮らし、妻のもとにもまた田中に協力を仰いで行こうとし、たまにこうして実家に帰り、掃除機をかけ手伝わせている現状があるのだけれど、母の中でそれとこれは別、狩りは危ない、でもそれは目が見える見えないに関係ないんじゃないかと思ったが、黙って母の言うことを聞き、掃除機をかけている。空白を空白のままにしておくことは、対立する主張を対立する構造ごと保存し、かつそれぞれの主張は認められた風に感じる、それぐらいの処世術は心得ていた。掃除機をかけるのも終わり、片付け、縁側で簾越しの弱められた残り香の陽の光に当たりながら休憩する。
妻の調子は徐々に回復し、何度か帰宅もしていた、とても明るい、出会った頃の風景が繰り返し閉める風景として再生された、その腕に抱きしめるそれは、脈打ち、しなりながら、僕を飲み込み、何度も繰り返した。久しぶりに本棚に向かったのも妻が時折出される一時的な帰宅許可が降りたときから、温め直すように手に取り始める、結婚前に僕が妻に何度も参照していた文章、彼女はもう忘れてしまったと言ってたけれど、嘘をつくときに少し多めに息を吸う癖はずっと一緒だった。頭のおかしい人だと思った。彼女はそう僕を笑いながら、けなした。ひどいな、でもその通りだと思う、僕も笑って答えた。来月からはまた二人で暮らせるようになる、僕はまた猟に行くための準備をしながら、初夏の日差しを吸い込めることに人生の充実とやらを感じるほど浮かれている。
父と共に山に入る、母はもう父や僕に対して意見を述べることを諦めたようだった。明日には帰る予定、また妻のところに行かねばならない、鹿を一匹だけ。山の入り口は土を踏みしめる音だけ、猟師が何度もそこを通ったために、歩幅の分だけ雑草すら生えていない、むき出しの土が仰いでいる。猟の解禁される期間のみそこを踏んで中に入るので、大方そこは誰も通らないのだが、コンクリートの隙間からでも根を張り空をうつ草たちは、私らが通る道を避ける、どこに続いているわけでもない、気がつけば消えている道、一歩の罪深さが、鹿の一歩と私らの一歩とでは違うのだろう、草たちは避ける、地面だけが受け止める。先行する父が草をどける音、素直に従う草の音、熊よけの鈴は父と僕とを結ぶ綱であり、目であった。鈴の音は反響し、僕の内耳に届き、全身で立ち上げる世界、目で見るよりもより詳細に、俯瞰に、花粉の流れや獣が通った跡、銃弾の残り香が、交差し捻りあげられ、またちぎれ、何重にも重なって透ける。切り詰められた知覚は、身体に入力される情報の配置を限られたもので成り立つよう再構築し、捉える環境は、経験と再構築により異なる層が混合した、異様、かつ既視感。白杖も最近使わなくなった、使うとしても街で自分が視覚障がいがあることの証明程度だ。
膝丈まである草をかき分け、倒木を乗り越え、いつも父が狩場にしている場所についた、いつもここから、狩る対象によってその近づき方を変え、仕留める方向を決める。
「父さんついたよ、今日はどうする?」
この前みたいに問いかけてみた。父の姿は、さっきまでの鈴の音、草木を退ける音が無い。父さん?また問いかける、響いているのは自分の声のみ、跳ね返ってくるのは木々の感触だけ、父の姿はそのかけらさえも浮かび上がらない。僕が聞いていた鈴の音、そもそも何を聞いていたんだろう、実体のある音なんかではなくあれは僕が立ち上げた仮の足場だったのだろうか、父はどこに行った、もしかして最初からいなかった?じゃあ家にいたのは誰だったんだ?
左胸に取り付けたトランシーバーをたどる、猟に出るときは常に装備し、仮に遭難しても猟友会のメンバーに連絡はつく。チャンネルを合わせて声をかける、どうぞと言っても反応がない、誰もいないのか、誰も応えないのか、テレビの砂嵐のような心地良いノイズしか聞こえてこない。
一歩、大きな一歩、こちらに慎重に近づいてくる、小枝は踏み潰され、濡れた地面に穴が穿たれる、かなり遠いがこちらに気付いている?湿気のまとわりつく周囲が凍りつく。父ではない空腹の香りに痙攣して、すぐそばにある大きな岩に身を隠した。地面に抱かれる、地面を踏む一歩の、泥の跳躍、向こう、岩を挟んだ反対側から吹き出す大量の食欲、複数いる?単独の大きな獣?、分からないなりにも分からない僕が皿に盛り付けられつつあることはよく分かる、理由はない、ないことはよく分かる。
匂いの源泉は時々止まりながら、僕の跡を追っているようだ、僕の歩いてきたペースまでなぞって、今ここにいる僕を探索している。太いその脚、草木は一旦は避けるが、そのあとまた立ち上がる、人間ではない、太い毛のうねり。
僕は腰につけていた護身用のナイフを手に取った。刃渡りは三十センチほどあり、先端にかけて少し背を湾曲させている、お守りのようなもの。使ったことのある人間は猟師仲間でも限られている、今ここで使うのか。右手に持ち、左手人差し指で刃の根元から先端に向かって指をなぞらせる、湾曲にさしかかると指は加速し一気に先端になり、指の先を切りそうになる、薄皮一枚傷ついた先を親指と中指でこすり、下ろしていた腰を少し上げた、片ひざをついて息を吸う。左手で岩に寄りかかり身体を支える、岩から立ち上がる摂動が、土から吸い上げる湿分に共振し、木々の風に揺らされる様の中にぼかされ、やってくる獣を待つ。源泉は近づいてくる。僕は消えそうになりながら、ナイフと握手をする右手の脇を締め、源泉との対峙に熱を冷ました。
あと数メートル、僕らの距離が縮まる最中、際限なく湧き出る匂いは、瞬間的な高波と一緒に消えてしまった、向こうもこちらに気付いたのか、森の中は木々の枯れた、焦げ付いて懐かしい匂いしかしない、風はどこかへ行き、僕らは消えそうになりながら、互いを探している。両足は土を蹴るように反り返り、より低くなる。
急に空に対して開かれた気がした、真夏の日差しは木々に囲まれているのに、土は氷のように冷たいのに、すぐそばに太陽があるように、目一杯の光を浴びた、暑くて息苦しい。そのあと少し、ほとんど無いと同じくらいの少しの時間のあと、勢いよく噴く鉄の舌触り、鼻先まで至り、そのままこぼれる、岩に寄りかかっていた左手も、ナイフを握る右手も、地面の冷たさになる。そのまま腹ばいになるしかない、人形のような僕は、背中から吹き出す血の勢い、つられて早くなる鼓動、後頭部にかけ吹きかかる荒い鼻息、彼はちゃんと獲物を仕留めたかどうか確認しているようだ、まだ右手の中にはナイフが居てくれている、彼が最も近づいたであろう、鼻息が強く吹いた瞬間に、振り返り、左手を彼の長い口に対し奥歯を噛ませるように突っ込む、手首と肘に、歯があたるのを感じる、彼は突然のことに困惑している、そのまま右手でナイフを逆手に持ち替え、横から滑らせた、ナイフは脳を滑空し、柄が彼の毛まで到達し、反対側から吹き出すのは割れた風船で、彼の頭の中をねじる、そのまま背中側へ断ち切る、彼の叫び声が僕の左鼓膜を限界まで震わせる、僕の身体が後方へ強制される、背中は木にぶつかり、持たれるような格好になった。
彼はいくらかの声を発しながらそのまま崩れ動かなくなった。先ほどの森の中を充溢させていた空腹は苔に吸われて消え、相手の絶命に僕は満足した。立ち上がろう、帰って手当を、そう思った矢先、立てないことに気がつく、紙切れのようになった左手では頼りないので、右手で持っていたナイフを置き、身体のラインをたどる、へその下あたり、管状のおもちゃのようなものが、腹から伸びている、そこから先は、似たような管やら塊やらしかなく、地面をうつたくましいものはない、水たまりになった腹から下のところ、いくつか触れてそのまま木に寄りかかった。
さっきまでどこにいたんだろう、聞こえなかった鳥の声、すぐ近くにまで来ている、右手の人差し指に鳥のとまるかんかくがする。こどものとき、山の寺でかくれんぼしていた、あのときみえてたんだ、僕をみつけようとしていた彼、すぐそばにまで来ている。とてもあたたかい、眠たい。
白いたてものがみえる。よくはれている。あいたい。まずこの言葉がきえた。
みつ。
さいごにこのことばがきえた。


暗い浮遊として、目を覚ます、きえていた視界は、ほのかな赤色を捉え手足は暖かな液相をつかむ。狭く身動きの取れないほど、ただ迫る壁の冷たさはない、何かの中の中にいる。眠たい。外からもやのかかった声が聞こえる。柔らかく、優しい声が、時々帯びる熱に、心地良く、全身を包む流動の、持続と恍惚。さっきまでの激痛の緩和としての安らぎではなく、平穏であることがそのものとして肌を撫でる。死んだんだろうか、じゃあ、ここは死後の世界か、言葉は散った花びらが旋回するように戻って、何食わぬ顔で僕の頭の中で接続され、文章となり、一束にまとめられ、僕は反省し僕を思う。
突然、僕の周りが外に押し出された。暗いぼんやりとした背景に、瞬間的に明滅するものを、まぶたのうらから眺める。泡立つ周辺、途端に振動する壁面。震えは液を媒介に、僕に出ていけと呼びかけている。不安と困惑、僕は短い手や足を動かしてみる。苦痛に耐える歯ぎしりの音、外部の声は大人数になり、明滅の感覚は鋭くなる。振動と硬直が交互にやってくる、周期は短くなり、明滅だった光は、無限小の暗闇と無限小の光の交換になり、指向性を帯びる。向こうへ行けというのか。大きくなる開口、唸る声に押し出される。また人になるのか、苦痛に満ちた行程を辿るのか、僕は手元にある管をみた。管は、壁と僕をつなぎ、そこを行き来する流動は活発に、周期的なリズムは周りをはやし立てている。へそから突き上げる意思は、僕の物でも僕を包むものでもない、僕の中に内蔵され、起動を始める偶然の衝突たちが、十分な数を集め、より生きようとさせる、そこに僕が何かを思ったりする余地はない、何かを起こすものは、常に隠れてしまう。
そのとき、あの管が、僕の首にかぶさるようにまとわりついた。壁面の振動周期はいよいよ短くなり、僕を光へ押し出そうと固く、奥の方から縮んでいく。押し出されるほど、首に巻き付いた管が締める。管からは僕に生きよと促し、大量の光を注入しながら、それらが行き届くことの無いよう首を圧迫する。共食いの均衡は崩れない、お互いの配置の間にいる僕は、どちらに転がるのか様子を探る。そのとき、後ろの方からの収縮が僕を強く押し出した、頭の先は光の方へ出ている。それ以上に首の圧迫はより強固なものとなり、管自体をも捻り上げ、僕の意志は途端に脆弱なものとなる。薄く開いたまぶたの奥から、周囲から粒状の覆いをかぶせられてゆく。なお続く収縮に応える無欲により、全くの暗闇の音が僕の耳に圧をかけた。抱かれるその身体は、もう僕のものではなく、有機的な入れ物となり、取ってつけたような四肢は丸まっている。光に踏み出した僕の身体について医師が死亡を確認し、意味のないそれを僕と妻が交互に抱いていた。。
「……私たちは、何をどう間違ったんだろう。」
何も間違ってなどいない、間違うことすらできない、何も問われていないのだから。ただそうなった事柄を受け入れるほかない、僕が僕であること、僕は何かの一部であること、僕は部分の総合であること。僕というものを起動し続ける、組成と役割の接続が僕の両手から離れてゆく。自己形成された網目はその核に集合し、周囲の接続を解除し、それがそれである最小単位となったうえで、球状の光から引きはがされた。僕は分裂し四方へ拡散する。落ちてくる黒の空、まだ帰郷の念を感じることのできるとき、僕は私とすれ違った。私はあの光の球に向かって押し出されている。黒の空に帰り行く僕であり私は、その領域に沈着することで、黙り込み、記述されえない余白となる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?