はがれた景色⑦

第43回すばる文学賞 一次選考にて落選

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理解とは願望だが、それは生存への願望であり、個を個たらしめる願望であり、実現されえない永遠に継続する記述、描画、計算の重畳により支持されている。理解を止めると立っていられなくなる、めまいが収まらなくなる、視界は揺れ続け、身体は粒子化し、記憶からも認識からも消え去る。理解の形式は種によって異なれど、種に応じた理解形式があり、理解による反省があり、その循環により結晶化し、他者と交わる。演じ、理解し、交わる、区分された領域の内外で生じる運動、他者に見出す己がいる。弾けた肉片、むき出しになった骨髄、それは砕けた岩であり、結果としての砂であり、折れた木であり樹液であり、その痛みは己のものと分かつことができない。他者の演技、迫った躍動において、彼ら彼女らはともに踊る。呼応し、また呼びかけ、肉と骨と、血と唾液をまき散らし、突き上げる欲動のまま、輪を介して伝播される波動に従い、偏在する己を偏向した己でもって殺めるのだ。光の領域は自殺的である、己を己で食いちぎる、己で己を慰める、己により己が悲しむ。そうして己を知る。知識は主体を強固なものにする、呪いによる呪縛をより透明なものにする、主体は語るようになる。呪縛はますますきつく縛り上げるが、彼ら彼女らは一向に気付かない。当事者をなす内臓や神経系、循環系は圧迫され、うっ血し、ひそかにその目印をけなげに示して差し上げる。粒状の視界、力の抜けた関節、胃液は押し出される。疑似的なめまい、吐き気。そうして己を縛り上げる縄が顕現し、自己反省により層状に固められた自意識が融解を始める。結び目をほどき、外側からゆっくりと、一枚ずつ丹念に取り除かれる。融解した外皮や呪縛は四方へ散逸することはない、それは常に主体の周りを取り囲んでいる。必要であるならすぐにまた戻ってくるし、必要ないとなるならまた主体の周りを浮遊している。自意識さえも自在に扱う技巧、すべての動物が、すべての植物が、すべての岩や水や空気が持っている技巧、生でありながら死であるための技巧。訓練をし、反復し、形式を修正し、形成されなくてはならない。生の欲動を生の形式に従って転換する、力、さざ波に対する、かすかな抵抗。抵抗もまた接合し、順路を開拓し、種の違いを超え、網目状に広がり、その色彩を深めてゆく。振動は重なり、網はうねりをなす。黒の空に染み出す白いうねり。染み出した分だけ、黒は押し出される。そうして波は次第に包括するようになる。境界がふらつくさま、彼ら彼女らが織りなす生地のうねり、視界の揺れ、めまい。波は再帰的に自身を定義しなおす。私である沈黙、個物のそれぞれに潜む、個物自身からは到達できない沈黙、余白。埋め尽くすことなどできない、なぜなら立ち退かなくてはいけないから、捉えることはできない、なぜならありとあらゆることだから、調停することはできない、なぜなら対立に必要な個物としての境界の外にいるのだから。個物と個物の関係、私とあなたの関係、つながり自体を存在とするための場の生成、あらゆる基底の場を支えているところ、沈黙と余白。都度訪れる静寂、不意に吸い込まれる負圧。遠く一点に収束するところまで伸びるハープの弦、それを操る無数の対の手、響く先もなく、媒介する者もなく、手だけが懸命に動く。境界の調停、交わるところの無いところから弾かれた弦、それはある者の自己融解。あなたがあなたであることを止めたとき、私はある姿を伴って顕現するだろう。繰り返され鏡面となった技巧、眼球の、虹彩に支持された瞳の黒さが映される。その黒さ、己自身の黒さ、そこには何も映っていない。そこに私は下り、そここそ私であり、あなたなのだ。肉を裂いても、骨を砕き骨髄をすすっても、内臓をすべて裏返しても、脳にプローブを差し込んでも、私のあなた、あなたである私は顕現されえない。あなたはあなた自身でなくてはならない、あなたとして一つの独立した個体でなければならない。必要なものは鏡であり、磨き上げるものはあなた自身であり、見つめる者もまたあなたである。誰もが自身に対し臨むことができる。ただそれを実行に移す者は限られている。誰もがその機会に恵まれる。ただその機会を機会としてとらえることができる者は稀である。忍び寄る猫のすり足、牛の眼球、オオカミの遠吠え、開花する木々や草花、それらをつなぎあわせる、網目の向こう、語と語、文と文の接続された、その空白。見渡せば、耳をすませば、手を広げれば、彼ら彼女ら、またあなたは沈黙と余白の輪郭を捉えることになる。境界領域に足を踏み込んだものは切望する。踏み込まれたものは切望する。あなたでありたい、私を捨てて、受肉されるべきだ、一つの個体として。張りだす斥力によりあの奇妙な連なりが起動を始める。ただの揺れ、これまでもこれからも繰り返されるであろう揺れ、生成と消滅が対になった運動の果てから、消えることができず残されてしまった一つ、また一つと出来上がる。それらは互いに共鳴し、衝突し、めいめいの無限に小さい差異が、それは沈黙していた時には明確で、明確であるがゆえに気に留める者はいない、積み上がり、より大きな差異となり、個物が個物として分かりうる、それらはあらゆる段階において別のものであるということが分からない、より大きなものとしてなる。同一、それは認識の問題であり、ある程度で線を引くということであり、線の引かれた先の擾乱をあきらめるということである。ただそんな諦めと合一が表層を覆う、少なくとも己自身を含めた他者との会話において規定されるルールの下地があるところでも、その線を引く様、理解を促す前の思考が乱発する様、眼前にある者を捉えようとする瞳孔の黒の深さにおいては、そこに元居た故郷の、懐かしく安寧の、もう戻ることの無いところ、そこに今行ってはならないが、いずれ朽ちゆくときには戻るところ、一と一の狭間にあるそれが、まさに記述されないことによりその輪郭を帯びることができる。それは、無限の目的にも無限の原因にも還元されえない、今それを捉える者にとっての、希望とも呼べるものである。分割の前提となるある一つの個物、分割からさかのぼることはできない。材料を合わせたところでただの材料のそれぞれが同居しているに過ぎない。それらを束ねる者としての私、そうしてそれぞれが関係し、網を作りそびえる山が成り立つ、そういう領域に、私は押し出される。私の指向もなく意図もなく、そう命ずるのだ。あなたが。次々に連なる連鎖、もう戻れない。それでもかまわないと思った。思うだなんてことは一度もなかった。一度と数えることもできなかったのだから。私の形成、擦れ行く界面、自己複製し増大する器の中で待つ、杯の中で浮かぶ私のはじまり。黒い空から染み出した一片は、自身に別れを告げ、私として飛び立とうとする。すれ違う私、元居たところに帰る彼ら彼女らの群れ、私と同じように、彼ら彼女らとしてあろうとする者の群れ。私を押し出した斥力は、私に内包され、指向性を帯びる。消えそうな界面、頼りの無い推進、それでも進み続ける者ら、或る者は消えてしまった、或る者は止まってしまった。狭くなる坑道を抜け、光の方へ這い出す。私であること、何にも代えがたい、個物足りうること。


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