はがれた景色②

第43回すばる文学賞 一次選考にて落選


黒くなだらかな丘陵の凹凸と感度の鋭い灰色をした空の境界に、僕はたくさんの、白いコートに白い三角の、背が高くつばのない帽子を被った人間たちとともにいた。丘は何かになろうと欲する前のありのままで丘であり、大木が灰色に立ち枯れ、膨らむ雲が千切れ、腐った水が蒸発し、刺繍針のような日が照らす訳ではなく、黒々と滑らかだった。同様に彼ら自身である彼らは一様に同じ方向へ歩いており、僕はその行進の中に、僕としてひとりだけ立ち止まっていた。行進は丸みを帯びた向こう側の、そのまた向こうまで延々と続いており、おしゃべりもなく、会釈もなく、喧騒もなく、淡々としている。彼らの行進はその歩幅、手の振り、歩く速さがそれぞれであり、個々人が個々人たる様がにじんでいる。それだけでなく、彼らのそれぞれは手の振りが揃ったり、逆位相となったり、歩幅も長くなったり短くなったり同じになったりしている。遠くまで見渡せば、互いに影響を与えあっているような個々人の振る舞いは、晴れ上がった青空のもとうねる大海のように動的な静寂を帯びている。それは一つの意思だ。彼らはまだ欲している。
彼らは僕を避ける。僕と彼らは関係しない、関係しようとしていない。だけれども僕には彼らが見える。手と足を交互に放り出し、前進する姿は紛れもなく僕も彼らのうちの一人だと感じるのだけれど、彼らにとって僕は川の水ではなく岩なんだ。ありとあらゆる彼らが過ぎ去る。彼らはみなうつむいており、どんな表情をしているのわからない。僕には彼らに期待していた。彼らがなすうねりが指し示すは、僕がどこからかやってきたそのどこかであり、これから向かうどこかでもあると感じていた。辺りを見回す僕には、後ろから前へ進む彼らの行進が、丘の稜線との交点で反射し、とてもきらびやかに見える。
そのとき彼は僕の真正面にいた。歩みを止めない、常に動き続ける彼らの中にあって、動きを止めたのは僕とその彼だけ。彼の表情は帽子のつばで見えない。真っ白なコートに、一筋赤い、真っ赤なラインがすっと、蜘蛛が忍び寄る静けさでもって汚した。彼は僕を見ない、僕は彼をじっと見る。何かの暗示かと思った。行進の中ただ一人立ち止まって僕の目の前にいる彼は誰なのか?僕にとって大切な人、妻だったり、家族だったり。それとも街中ですれ違う見ず知らずの人。テレビ画面の向こうの、戦争で傷ついた人。僕が産まれる前に死んだおじいさん。しかし彼は誰でもなく彼であった。最初に立ち止まっている姿を見た時のままの彼であった。そうか、彼は、あの時の、我が子だ。
生まれた、そして死んだばかりの彼の顔は、単なる裂け目のような閉じた目、呼吸としての役割を放棄した、少しばかり開いた口、眉間のしわであり、あなたはこの世に生を授かりましたと社会をなす人間たちから認定される前に、苦しみを堪能した、その無念と恍惚が、分娩室の照明を羊水で反射して僕を刺していた。あのとき、赤子を医師に預けた僕はうなだれ息を荒げるる妻の手を握り、二人して無表情のまま同じ時を過ごした。互いを慰める言葉は無く、そんな必要もなく、直に手を取ることがそのとき僕たちにできる精一杯だった。赤ん坊を授かったことは、僕たち二人にとっても、また両親や親戚、友人たちにとっても祝福すべきとことして咀嚼されたし、日々の彩度を上げるものだったが、僕の心は静止したままだった。祝福は浮力であったが、その抗力となる重力が重りとなり、水面まで浮上することを妨げられているようだった。彼は出生のその瞬間、自らに宿った生命を維持させるための、有機的な命綱でもって己の首を絞めたんだ。僕らが手を取り合っていたのは、生命の発生に端を発した下向きの力が、彼の死によって浮力が消えた分、強く下に引き摺られることもなくなり、少し安堵したからで、でもその安堵を口にすることも憚れるものだとも思い、手を無表情で握った。
「……私たちは、何をどう間違ったんだろう。」妻が言った。彼女の目尻から溢れる涙は、器のぎりぎりまで注がれた酒が、表面張力に耐え切れず少しだけその形に沿って流れ落ちるように美味そうに見えた。
「何も間違ったことなんかしてやいない。ただ……。」
「ただ、なに?」
堪えることのできない僕は、口を何とか動かくすことが精一杯で、その様子を見た妻は、そう、とだけ言い、また濁った唇で黙りこくった。赤ん坊が死んでしまったことも、そのおかげで自分がほっとしていることも、彼女がこうしてうなだれていることも、五感で感じ取れる世界全てが、鈍く重たく色彩を欠いてゆく。
大声で叫んだ。……僕が君を殺したんだ!……行進が止まる。うねりが瞬間的に消え失せ、時間も無くなったように思えた。口の中が雪混じりの風にさらされている枯れ木のように乾き、唾をごくんと飲み込むことで僕は嫌な予感を無かったことにしようとする。
進行方向のみを向いていた白装束の彼らはこちらを一斉に、服を擦りながら振り向いた。黒い砂ぼこりの舞う中、僕は周りを見渡した。白い帽子は白いコートとつながっており、恐らく目があるであろうところに、必要最低限の穴が空いている。穴の向こうは真っ暗で、白目が無いのかそもそも僕の思っている目が無いのか分からない。その虚無の膨大な視線が僕と彼に向けられる。僕は、君を、……。うざったい視線たちを振り払う。また大声で、今度は一言づつ区切りながら叫び始めた。Kの子音が放たれるその一瞬前に、彼がゆっくりとこちらを向いた。僕は目的を失った言葉を腹に収め、その顔を見た。彼の顔は、周りの人間たちと相似を成している。なぜ彼が彼であることを僕が認識しているのかは見当もつかないが、その内向きの眼は私を捉え、僕の頭蓋の浮遊は確信している。こちらを見つめているその様は、周りを取り巻く空間、静的な時間、無数の視線たちの全て、僕の目の裏に映る光、舌の上のざらつき、額に浮かぶ汗、鼻をつく無臭、体温を奪う対流が、彼たらしめるシンボルとして機能し、僕の感覚を圧迫し、反省の余地を残さない。視界がざらつき、黒の粒状のものが視界の端に写る。立っている地面は僕の足の延長であった。撫でる空気は僕の逆立った産毛だった。僕を僕たらしめる内的な循環は、形状の操作を失い始める。見えないもの、聞こえないもの、触ることができないもの、味わうことができないものの、捉え難さとしての何もなさに、引き延ばされて極小にされ、あらゆるものの否定として還元してしまう。苦しみは、吐息とともに消えていった。
急に胸のあたりが重くなる。彼は、僕から視線を外し、再び進路方向に歩みを戻し始めた。待ってくれ!まだ……
引きずられるように一歩踏み出すと、ぴしゃっと液体が跳躍する音に視線を足元に強制された。黒い大地に紅の川が流れている。川面はその毒々しい色彩とは裏腹に、穏やかだ。僕は視線を前方に戻す。彼は川の向こう岸、まだ彼と分かるところにいる。濡れてもいないのに濡れることも辞さず、もう一歩僕は踏み出した。すると目の前下半分が真っ赤になった。はるか向こうにちらつく一つの人影が彼だと分かることで、僕は川幅が一気に広がったと理解した。
圧縮と伸展を感じなくなったことで、周りの人間たちが居なくなったと分かった。彼ももう見えない。僕は一人になった。空と陸と、川の境界がぼやけていく。にじみゆく景色を映しながら、僕は、唐突に光を奪われた、蒸し暑い地下鉄の夜を思い返した。

物質は必ず引き合うらしい。そうは言っても片方があまりに無防備に極大だと、極小の身としてはただ極大のものに制約されているようにしか感じ得ない。極小の認識は、極大の実存に依存している。寝起きの感覚が一番好きなんだ。僕を引く地面と地面を引く僕が、背中と布団の接地で一体となる錯覚を得ることができる。小さい頃、まだ十代にもなっていない時分に、和室の仕切戸とその床を、布団の中に潜りながら考えた。僕がずっと小さいものを捉えうる目をしていたのならば、接しているとみなされている仕切と床は、必ず隙間があって、そこにも何かしらの生活が営まれているのだと。ほんとうはせかいはわけることができないんだ、みえかたはちがうけど、それをおなじとみるめをもっていないだけなんだ。子供のときの直観なのか空想なのか妄想なのか屁理屈なのか、三十代も半ばにさしかかった男が、結婚し家庭を持った男が考えるようなことではない、あくびによって大きく吸い込んだ凍った流体が身体の中の球状の、いくつもある袋に取り込むことで、考えたことを吐息に混ぜてしまおうと、吐かれた息のことなんて誰も気にしないのだから、出来る限りフィルターで濾して、無機質な飾り気のない剥き出しの工場の煙突から排気するように吐き出した。まだ僕の背中と布団は混じり合ったままで、その場から動けないし、まぶたも閉じたままだ。僕の身体が機能維持すべく発せられた熱は、汗が気化することで空間に放たれ、掛け布団が成している空気を温め、僕の顔を吹きつける。田んぼの泥に植えられた稲のように、僕の意識はまどろみと覚醒の両方に突っ込んでおり、落ちてゆきたい衝動が、一つ二つと泡立つようにこみ上げてくる。身体中をはい回る、手足を持たない虫たちがあちらこちらに噛みついたのか、焼かれたような痛みが全身に鈍く走る。床をする音がした。
「おはよう、朝ごはんできたよ。」「今いくよ。」
小さな、小さな生活の営みは、僕らのこんなささやかさに潰されて消えてゆく。布団は身体から離れた。はっきりと分離した。僕は僕自身となった。
僕はスリッパを履き、寝室を出て、トイレで用を済ませ、顔を洗い、拭い、ダイニングテーブルの僕がいつも座る席にかけてある、フリースを羽織り、席に着いた。
「今日は大根のお味噌汁と、納豆と、昨日の野菜炒めの残りものとご飯ね。いつもの場所に置いてあるから、分かるよね?」
「ありがとう、助かるよ。いただきます。」「いただきます。」
右手をゆっくりと伸ばし、机の端にこつんと人差し指の第二関節があたる。それから指先を端から面に沿わせて箸を探し出す。両手で箸を捉えると、左手でいつもの位置にあると言われた味噌汁の器を持ち、立ち上る湯気を顔で受け止めながら、一口含んだ。目がまったく粒子の回転や波の振幅を受け付けないというのに、僕のまぶたは閉じたり開いたり、味噌汁のその湯気立つ様を、暗闇でもって捉えようとしている。五年前の八月、盆休み明けの金曜日、地下鉄のホーム。ある種の信仰による疲労が、深夜のホームに過剰な行儀良さで並ぶ人々を覆い、にも関わらず目と肩と首と、何より口元に、これも行儀良く気にならない程度に負担をかけてる。そんな中僕は失明した。列車がホームに進入してくるのが見えた。銀色の列車はレールの上を滑り、鳥肌がたっている。後ろの方ではむせ返るようなアルコール臭を漂わせる二人組の男が、人目をはばからず大声で愚痴を交わしている。うんざりしながら僕もまた青くひどく明るい光を自分の顔に照射していた。やがて電車が停車し、扉が開くそのとき、僕の前にいた男の背中が電車の扉にぽたぽたと滲んだ。質の悪い和紙に水性のインクをこぼしたときのように、ものの輪郭がぼやけて、すべてグラデーションとなっている。電車のライト、ホームの黄色い点字ブロック、振り向く前の男の声、後ろから叩きつける酒の匂い、それらが僕の境界に侵入してくる。僕の方もそれらと交換されているようで、散り散りになった僕は、ひざに力が入らなくなり、操っている人間がもう飽きたと手放し目的を失ったマリオネットようにその場で崩れた。熱い地面と溶けて一緒になる感覚がした。何かが聞こえているような感じはするが、すべて遠いところで起こっているような気がする。混ざり合った景色は、端の方から黒に染められていった。まるで柔らかいクッションに包まれているような心地よさを感じながら、僕は自分を意識することができなくなっていった。

「明日は早く起きなきゃ。久しぶりね、あなたの実家にお邪魔するの。」
「昨日は少し夜更けまで起きていたからね、今日は早く起きるよ。」
うん、と小さい返事をして雑穀米を口に頬張る。書き殴ったような紫の球体が弾けた。

エンジンの振動が突き上げる。左側の車体に押し付けられる。湿度の高い空気は、皮膚からの気化を妨げ、体内にはうごめきがへばりついている。森の吐息の中を、バスは舗装された道路沿いに抜けていく。
「お茶もらっていい?」
「いいよ、ちょっとまってね。」カバンの中身を探る音、ペットボトルのふたを開ける音。おおよそ僕らの発する音は、バスのエンジン音に負けてしまって、線香の先から登る白い煙が、せん断と回転を繰り返し、薄くなってみえなくなるように、消えていってしまう。
「はい、どうぞ。いっぱい入ってるからね。」と言って、妻は僕の手をとり、ペットボトルを持たせた。表面は強張ったように冷たく、痙攣した水滴が指に乗っかってくる。左手で飲み口を探し、口につけ、傾け、喉を濡らす。身体の温度差は、胸のあたりで無くなる。
「ありがとう。」と言って、彼女の手を探し、取り、ペットボトルを渡す。僕が右手を差し出すと彼女は左手を差し出す。朝顔の蔓のように、寄りかかるところを探索する私たちの手の静けさ、指のしなり。バス停の待合室も、外側を蔓が覆っていると妻が言ってたっけ。昔遊んだ公園、お寺、川はどうなっているのだろうか。僕や当時の友人、また僕らの父や母たちが愛したあれやこれやは、森に寄りかかられ、蔓がはい回り、草が突き上げ、飲み込まれてしまったのだろうか。
「どうしたの、神妙な顔しちゃって。」
「いや、子どものころ思い出してさ。よく遊んだところは今どうなってんだろうと思っちゃって……。ほら、バス停の蔓がすごかったって言ってたじゃない。」
「じゃあ、見に行ってみましょうよ。あなたの子どもの頃の遊び場、見てみたいもん。」
普段の妻は疲れ切っていた、僕の目が見えなくなってから。盲者との生活に慣れるため試行錯誤があったが、今は大半のことは、外出も一人でできる。ある夜、途切れそうな覚醒の、真っ暗な向こう側から匂う焼酎の気化と、組み替えられる足、その度軋む椅子。一度起きてみて、付き合おうかと言ったことがある。彼女は大きめな声ですぐ寝るから、と言って片付け、本当に寝てしまった。すれ違う寝間着の逆撫では、ひび割れた大地に月光が包んでいるような、芳醇な寂しさだった。
だが今の妻が発する声、匂い、リズムは、バスのエンジン以上に懐かしい。彼女は出会ったとき、盲目になるまえ、今よりもはつらつとして、少女の面影が強く残る人だった。彼女は系を成す中心であり、僕は周回する付随だった。久しぶりに陽の光を浴びた気がした。
「じゃあ、家の用事を一通り済ませたら、近くの寺に行ってみようか。子どもの頃、よくそこで遊んだんだ。」
妻は幼げに返事してくれた。
その後バスは大きな旋回を幾度か繰り返し、僕らの目的のバス停に着いた。ここで母と落ち合う約束になっているのだが、まだいないようなので、僕たちはバス停のベンチで待つことにした。初夏の昼前、街では朝の大騒ぎが落ち着き人も道路も建物もひっそりとするこの時間、森は陽光を得るために背伸びをする。僕らの座っているベンチは木陰になっており、少し隔絶されている。
「いつ以来だっけ、あなたの実家にお邪魔するの。」と妻は訊ねた。
「半年ほど前じゃなかったっけ。お正月に帰ったから。」「そうだった。あのときはすごく寒くて、とても外に出れたものじゃなかったのに、今日は少し暑いけど、木陰は本当に過ごしやすいね。ずっとこんな感じだったらいいのに。」
うん、と小さな返事をする。少し嘘だ。
木の葉のささやきに身を浸し、区画化された涼しさにしばらく馴染んだ後、老犬のようなエンジン音が左の端の方から聞こえてくる。やがて心ばかり舗装された道路との摩擦音。連続的に大きくなり、止まった。
「みつちゃん、久しぶりね。貴久も。」
「御母さん、お久しぶりです。ほら、いくよ。」
「久しぶり母さん。」
妻の手を取り、母の運転する車に乗り込んだ。ドアが閉まるその間際、引き寄せるため風が、バスの待合室の、向こうの森から吹き込み、ほんの少しの間立ち止まったけれど、妻にも促され、何もないものとして後部座席のシートに腰を下ろした。


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