はがれた景色④

第43回すばる文学賞 一次選考にて落選

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彼らの建築物がその天井を捉えるとき、そのとき彼ら彼女らは、個物としてある意味をなくすだろう、集団に属す意味もなくすだろう、地面に足をつける重力も、構築した結合点の網の目も、その手に宿るぬくもりも、意味をなくすだろう。彼らの建築物はその接合という手法ゆえに崩壊し、一切は黒に帰すだろう。取りこぼされた者たち。そしてまた押し出されることを待つのだろう。なぜなら押し出す当事者は私らよりもはるかに力強いのだから。重なり合った別の領域では私らは別の私らとしてあり、それら無数の領域における微視的にも水力学的な平衡関係により私らは張り出したり窪んだりする。私らが加速させたり減速させたりすることはできない。そうした運動の力積に耐えうる構造を持ち得ていない。いずれ彼ら彼女らが帰るであろう余白について語りうることはない、言葉という建築物、結合の構造体系は適していない。それらは滅却しなくてはいけない、そのものになるために語る必要はない、語ることはできない。沈黙という言葉さえも沈黙に属しない。周縁から噴出する、重なり合ったときにしか認識されることのない微かな、頼りのない、ただはっきりとした実体。今にも押し出されようとしている子どもたち。彼ら彼女らに受肉されうる者たち。彼らは待っている。高揚と僥倖が作動する界面にまつわる諸作用の非線形な展開を、必然に落ち行く偶然を、反復される主体を。移り行く山の形状、海面のざわつき、旋回する空気、噴出する溶岩。色彩が充溢した領域。彼ら彼女らの領域。空を切る鳥、海をしならせる魚、爪を立てる獣、涎をたらす牛。切り立った岩石とそこに生える苔、丸くなった砂と穏やかな流線……。躍動と衝突が個々にぶつかり合い、その領域の界面は平衡しているが、その内は穏やかとは言い難く、個としてある苦しみと恍惚を叫び、飛び散り、ひねりながら向こう側へ消えてゆく。これがこれであるという不安。あれはあれじゃないかもしれないという安堵。しなる鞭により引き裂かれた皮膚は山脈の底の方から再生する。破壊により定められるこれとしてのこれ、帰すべきか残るべきか、その判断は常になされ続けている。その理由を知るため、ここにいる。私のいないそこ、後追いの構築により接合の手法を学ぶことができる場所、新たに一つの接合点を設けることができる場所、現にこうある理由を追い求め、その果てしなさを内蔵している器官により直に感知できる場所。幾重にも折り重なった彼ら彼女らの痕跡、塗りたくられた油は、盛り上がり、干からびている。それらの意味するところ、思索するところ、表現なされるところ、それらに私の居場所はない。ただの事物として、あらゆる軌道の端子が接合されることがない限り、居座ることができない。よって理由を知ることはできない。知る必要もない、理由と目的とともにあるのだから。繰り返され、山と谷をもつリズム、重なることで増幅し減衰もする一個体。沈黙はまさにその波が波たらんとする理由であり、目的である。凍てついている、不動の流れから滲み出す匂い。身体にまとわりつき、その演技的振る舞いを促す匂い。反復され受け継がれる身体記号、意味を見出そうとする指向、思考を止めようとする生存の欲求。私らはどこにいようと己を突き動かしまた引きこもらせる波の満ち引きに逆らうことはできない。それは死しても同じこと、そこに生死の区別はない、ただあるのは、貧弱で未熟な、転回する円周上にある私らという存在、もしくは存在しない者だ。沈黙、黒、余白。彼ら彼女らはそれらから滲み出す匂いを嗅ぎ、その通り道を遡上し接合点とその接合を織り込もうとしてきた。さざ波にさらわれる彼ら彼女らは世代を引き継ぎ、幾人もが接合点の場所を指し示し、それを成し遂げた者はそのものが不在となったとしてもその記録は残り続けた。接合と接合の網目、そこからこぼれる沈黙。接合の手法を更新することにより彼ら彼女らは匂いを嗅ぎ続ける、その道程を探索する、点が指示する対象と接合が支持する対象に、少しばかりの差異を発生させたとき、指示性の波は互いに打ち消し合い、現前するは個が打ち捨てられた、または個になりかかっている領域、受肉せんとたくさんの子ども達が群れる場所、そこに構成要素たる者はいない、素材があるだけだ。道程は険しい、登るものはめまいを覚える、吐き気をもよおす、それがそれであることが徐々に成り立たなくなる、存在する者にとって、消えることは至難である。反復により個体に蓄積される情報、受肉される概念、個体化する以前の個体。それらは個体の死とともに拡散する。反復したものは己を己と捉える器官さえ作り出すが、これら自意識も例外なく破壊し、ちぎられ、ばらまかれる。目には見えなくとも、手で触れることはできずとも、情報は重力により拡散し、網目を抜け、沈黙する。残るものは稀有だ、それが残るべきものかどうかは別として、輪に引っかかるように情報は拡散する。輪が輪である理由はわからない、分かるためには理由とともにあらねばならない。胎動する流動の渦から渦へ移り行く熱と物質により、私らは拡散し、留まることを許されない。衝突が、たった一回限りの衝突が、私を私自身によって何者であると自己反省的に作り上げる、そのための装置仕様を定める。あらゆることに理由はある、目的もある。ただそれらは捉えることができない。あらゆる理由の理由、あらゆる目的の目的、そういったものは理由として目的として存在することができない。知りたいという欲動、理解したいという貪り、そういったものをかなぐり捨てて、己自身の運動量でもってそれらを置き去りに引きはがして、彼ら彼女ら、そしてあなたは受肉した。私もそうなる。欲することは常に生の方向を向いている。それは白いところ、光があふれるところ。木の葉たちがおしゃべりをするところ、木々たちがぶつかり合うところ、猫が陽気にまどろみ、甲虫が地面に沈み、牛に蝿がたかり、獣が爪を突き立てるところ。模様は描かれ、塔は上へと昇る。塗りたくられ、穴を穿たれ、鋼鉄で打たれ、擦りつぶされるところ。静的な崇高さも曲線を描く狂気も、同じ位相にあるところ。苦しみ、悲しみ、喜び、怒り、そうした劇のような、配役から逃れられない舞台、負圧を持つ領域。何者かを演じなくてはならない物的な義務感、呪い。それは輝いている、様々な波長が絡み合い、真っ白に、輝いている。川が流れだす。止まっていたものが動き出す。黒の空が落ちてくる、低く平らに落ちてくる、光の方へ。その境界は大きく、それぞれ反対なものとして染み出している。彼ら彼女らは、もういなくなってしまった者たちへの記述、それはある個人であれ、個別の物であれ、総体としてのものであれ、彼ら彼女らの張った網から、その手から掬おうとしてこぼれてしまった者たちへの眼差し。それは彼ら彼女らの建築物を超えて、類似の接合点による網目を通り抜け、その網膜に、鼓膜に、産毛に、影をそっと張り付ける。彼ら彼女らは戸惑う。まとわりつく形状はこわばらせ、痙攣させ、めまいを引き起こし、それがそうであることから揺れ始める。己をなす振動が、己自身を揺らす。立っていられなくなる、瞼を閉じざるを得ない。長い間そうしていると、そこに存在することを許諾されない、いなくなる。それでも彼ら彼女らは己の足で立ち、突き上げる吐き気を抑え、瞼を開き、揺れる視界から天を臨む。そうしてまた新たな原初の点を、誰からも参照されない点を打つ。途端、点は四方へその接続を展開し、領域を覆い、そのときにはめまいは収まっている。


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