はがれた景色⑥

第43回すばる文学賞 一次選考にて落選

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ちいさな手にとってティーカップはすこしおおきめで、慎ちょうにはこぼうと、できるだけティーカップをゆらすことなくはこぼうとすると、すいめんはカップのはしのほうからなみが立ち、それらはまんなかにあつまり、もうひとまわりおおきくなってはしまでかえってくる。あるひとつのなみはティーカップのふちまでのぼり、一てきだけそとへほおり出した。あかみがかったすきとおるちゃ色をしたきゅうは、有里子のやわらかくつかいこまれたおやゆびのつけ根にそっとおちついた。そのようすを見て、すこしおくれて、ボールがころがるはだをやくいたみがちえの中でじゅうまんし、あふれそうになる。かんきせんの音がしずかで、となりのいえのしば犬のケンはまたとおりすがりの人にむかってほえている。でもちえは下くちびるを上のはでぎゅっとかみ、じぶんの内がわからふきこぼれるものを、できるだけしずかなようすにするべくこらえていた。どうしたの、そんなに怖い顔して。有里子はちえのぎょうそうにおどろき、しかしすぐあとにこうちゃが手にかかってじぶんがあつがったことにちえがはんのうしたんだとりかいした。ちえちゃん、お母さん大丈夫だから、ちょっとどいてくれる?そういわれるとちえのかおはさらにあかみがかった。へんじすることなく、うなずくこともなく、ゆっくりとすりあしでちえはテーブルにむかってあるきだした。ちえは、下くちびるをまたつよめにかんで、いたみがからだ中からあふれだして、なきわめきたくなるのをじっとおさえこんだ。それだけにしゅう中することにした。するとなみはカップにすい付き、ふちまでのぼることをやめた。けっきょくテーブルにはこばれるまで、なみはじっとして、もうちえをやくようなことはなかった。
ちえは母のほうをむいて、ゆっくりとかおをこわしながらなきつく。そのようすを蜜はじっと、ひとり分にきりわけられたカステラをりょうてにふたつもって、じっとみていた。ちえは母のむねでないていたが、すぐになきやみ、はなみずをかみ、テーブルについた。母の有里子もちえのとなりのいすにすわり、すでにテーブルにおかれていたカステラをちえのまえにすべらせた。祖母ははるさきの、ほこりっぽくぼやけたあたたかさのもと、テーブルにカステラをおく。
「それじゃあ、いただきましょうか。」
いただきまーすとねがい事をするかのようにぱちんとてをたたき、ちえはフォークをてに取りカステラを切って、くちにはこんだが、大きすぎてほほがふくらみ、うまくかめない。有里子はじぶんがたべるためにフォークでちいさくきったカステラをそのままにして、ちえのせなかをさすった。やがてくちのなかのカステラがかめるまで小さくなったのか、ほほはだんだんと小さくなっていった。じゅうぶんに小さくなったところでまたくちの中にほおりこむ。かむほどにくちの中はかさついたあまいあじでいっぱいになる。ちえは、りょうほほに手をあて、おいしいと母と祖母にしめした。
「ちえちゃん、美味しそうねえ。おばあちゃん、嬉しいよ。」
蜜はちえのようすをほほえましくみつめながらそうはなしかけた。有里子はたべかけてさらのうえにおかれたままになっていたひとくちぶんのカステラを、ひだり手をそえてくちにはこんだ。おいしそうにほおばるしぐさは、ちえとそっくりだった。
「お母さん、美味しいよこのカステラ。どこで買ったの?」「これはねえ、お隣の岸谷さんから頂いたの。」
そうなんだとこたえて、また一くちほおばる。蜜もまた、むすめやまごたちのようすをみながら、カステラをたべた。あたたかい、ゆるやかなじかんだった。
「おばあちゃん、ちえのおじいちゃんは、どこにいっちゃったの?」
とつぜんのおさない子どものしつもんにはどくとくの、とくにおとなにたいしての、するどさがある。有里子はくちにしたこうちゃをふき出しそうになり、あわててティーカップをテーブルにおいてちえにいう。ちえちゃん、どうしたの急に。この子はとつぜんやっかいなしつもんをする。あいそがよくてごきんじょさんからもかわいがってもらえているのに、とつぜんおとなのかおをするんだから。カステラ、もういらないの?なに、まだほしいの?
有里子のこまったようすに、蜜はおだやかなひょうじょうそのままに、ちえの小さなぷっくりとした手のこうにしずかに力づよくゆびをかさね、こういった。
「おじいちゃんはね、見えないけど、いつも私たちのすぐ近くにいるんだよ。ちえちゃん、いい?」
「このおかしにも?ちえ、おじいちゃんたべちゃった。」
蜜はこうちゃをすすりながらわらい、有里子はみけんにしわをよせ、ちえはすこしもうしわけなさそうだ。三人のすうくうきはこうちゃの、とうめいにちゃくしょくされたこまかいつぶがまじっている。でまどのカーテンにさえぎられていたようこうが少しつよくなったとき、カーテンはてまえがわにすいよせられ、ひかりはテーブルのまん中におかれたティーポットに反しゃした。


「いってきまーす」
ちえはりん人の子どもがちかくの公えんにあそびにいくのについていった。有里子は、りん人のちちおやがあわせて見ておくからということばにたより、ひさしぶりに母とふたりだけでじかんをすごした。じかんをすごすといういいかたがもっともこのじょうきょうをせつめいしている。もう冷たくなったこうちゃをあつそうにすする。ふるくなったティーカップは、ところどころ、とくに取手のあたりがくすんでいるが、きんとべにいろのはっしょくはあざやかに、はいけいの白がきわだっている。有里子はもうそろそろしまいたくなるふかふかのカーペットにすわり、蜜はもうなくなったカステラのあったさらがおきっぱなしになっている、ダイニングテーブルにひじをついて、有里子とおなじほうをむいていた。ふたりはテレビをながめていた。しんせいかつのとくしゅうだった。
「ねぇ、」有里子がきりだした。「お父さん、一応失踪っていうことでいいんだよね?小さい頃から仏壇があったけど、……」
それいじょう有里子は話さなかった。じぶんのいいたいことは、はっきりしていたがそれをことばにすることで、みずからほんいでないところにいかりを下してしまうことをさけるために、じゅうぶんな大きさのよ白をもうけた。あたまのなかもからだのなかも、できるだけまっしろに、なにのいけんももたずはっさないことが、有里子のまなんだしょせいじゅつだった。
「母さんはお父さんは死んだとおもってる。」
蜜はさっきまでとかわらないちょうしでいった。有里子の目はみひらいていた。みずからつくった平らでまっしろなへいめんは、母おやにはむりょくで、その下にあるあかちゃけたじばんを、彼女はとう人の目のまえでじぶんのすででほりだしていた。有里子はわるいことをしたきになった。
「そんな顔しないの、ずっと前からそうおもってたんだし、いまさらどうってことじゃあないじゃない。」蜜はおおきくわらいながらいった。
「……じゃあ、きいていい?なんでお父さんは死んだとおもうの?」
蜜はしばらくこむずかしい本をよむような人がするしかたで目にちからがはいり、かんがえていた。有里子がおったしせんのさきは、ひやけした本だなであり、そこには父おやのほんが大はんで、だいめいから見るにこむずかしい、おおきなしょてんのはしにしかない、へたしたらおいていない、とりよせてもなかなかとどかないのであろう本たちで、有里子は父おやをしらないのだが、お父さんが本をよんでいるなら、お母さんみたいにして、お父さんもよんでいたんだなあとおもった。
蜜はいっさつ、本だなからひっぱりだして、パラパラとめくりだした。有里子がうしろからちかづいてようすをみる。本はみたことない字やせんがかきこまれていて、それはほとんどのページにあり、そのおおさからきょうちょうのやくわりはとうていはたせていないようにみえた。ページはいっきにさいごのほうまでとんだり、そのつぎにはまんなかのほうによったり、さいしょにもどったり、いちまいずつめくられたり、かたまりになってよまれなかったりした。けっきょく蜜はめあてのいち文にはたどりつけなかったようで、むずかしいかおのまま本だなにもどした。
「何さがしてたの?」と有里子がきいた。
「あの人がよくいっていた文章があってね、この本に書いてあるのは知ってたんだけど、どんな文章だったか忘れちゃって……。」と蜜がこたえた。
なにそれ、有里子がそういってわらいながらこうちゃをくちにはこんだ。
「とにかく、根拠はないけどそうおもってるし、それについて確かめてみようだなんておもわないの。うまくいえないことは、ごめんなさいね。」
蜜もわらって、またいすにこしかけ、さめたこうちゃをのんだ。ねむ気がにじむ四がつのまどぎわ、さめたこうちゃをいっきにのみほし、有里子は蜜がもどした本と本だなのほうに、しょうてんをあわせないままむいている。ほとんど気にかけなかった本たちが、母のいうちょっかんのヒントのような気がして、のみほしたはずのこうちゃをまたのもうとティーカップにくちをつけた。
「有里子が小さいときね、すべり台から落ちたときあるじゃない。」「それいつの話?」「小学校にあがるまえぐらいじゃない。」そんなむかしのことおぼえてるわけないじゃない。とうとつにはじまったむかしばなしを有里子はすんなりうけいれている。「あのときほんっとに大慌てして救急車よんで診てもらって、すぐ怒って喚いたり泣いたりするあんたがうんともすんともいわなくなるんだから。」こうちゃといううほどあかくない。カーテンのいったんは切れてしまいそうに、ほつれた糸がからまって風もないのでじっとしてる。「あのあとあんたの目が覚めるまでの二日間、二日っていっちゃうとたいしたことなさそうだけど、でも大変だったのよ。今振り返ってみると、だけど。」えんとえんがかさなって、そのあわさったところをわたり、たどったあしあとをりゆうといったり理くつといったりするのだろうけれど、有里子にはじつの母のはなつことばのえんがどれにもかかっていないことには、ものごころついたときから気のせいかとおもうほどの小さなとっきではあるが気がついていた。だからどうということもなく、それはせんこうのにおいであり、きえたろうそくの火だった。有里子はポットにはいっていたこうちゃを、ティーカップではなくちゃしぶのついてきたないマグカップにいれ、でんしレンジで三分あたため、またせきについて蜜のはなしのつづきをきいていた。


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