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2020.08.13

今日は5時半に起きたのに全く寝れないのでとりあえず日記という形でこの文章書いている。さっそく間違えたが今日起きたのは5時半ではなく5時だ。正確には4時54分だ。なぜこんなに早く起きたのかというと昨日は21時に寝たからだ。なぜそんなに早く寝れたのかというと一昨日は2時に寝て6時に起きたからだ。たくさん寝る日と少ししか寝れない日を交互に繰り返しているので、これはこれで規則正しい生活言えるだろうか、いや言えない。

今週は積極的に休みましょうと会社が休みに設定しているので、9連休になっている。世間から羨まれるが、休みが多くあってもより多くの休みを欲するのであり、一週間以上休みになっても最終日になれば憂鬱になるし、何ならもう後半に突入してもーたやん、あと4日しかないやんとすでに憂鬱である。年収と幸福度の比例関係は1000万円まで、以降は横ばいと聞いたことがあるが、年間休日的にはおよそ裕福層にいることになる。それは幸せとは何の関係もないがだからと言ってお金が欲しくないわけではない。何が言いたいのかというと、ただ本を読んで、小説や詩を書いて、料理を作って、たまに妻と旅行なんか行ったりして、あとは何も贅沢言わないからそうやって暮らしていけたら最高である。まさに永遠の休日。

永遠の疑似体験としてこの大型連休に小説を書こうと7月末から8月にかけて考えていた。今年度で出向先から帰任することになり、俗にいう子会社の所属となり、まあ業務の責任の範囲が狭くなった、要は楽になったのだが、もうずっと親会社にいて、親会社にいた時間の方が子会社に居た時間よりもはるかに長くて、だからどうしても子会社の仕事ぶりがどこ見て仕事してんだろと思うことが1時間に数回は起こるほどであり(自分まじめしか取り柄がないもんで…)、客先(親会社のことではなく親会社の客先のこと)の価値的にこれってなんか意味ある作業っすかねと空気の読めないことをかまし続け、さらにそれを昨年度までいた部署にもかまし続け、そしたらプロジェクト部門から「やっぱり6〇5に直接頼みたいな!」となり、はあ~となりながら結局親会社の作業まで引き受け、忙しくなり、六枚道場も作品を提出できない回が多くなってきた。
で、これはいかんと思い、9月末の文学界か10月末の群像にむけて100枚程度の中編を書こうと決意、現在40枚ほどかけた。

あと休みが3日で(さっき4日と書いたがあれは間違いだ…泣)残り60枚ならば、まあ全部書き切る必要はないし半分の50枚まで行けたら御の字だし、今月中には第1稿が出来上がる見通し。いつもそうだけど、書きだすまでがう~んと悩んで長くて、いったん書き出してしまうとあっさりかけたりする。途中で詰まりながらで、止まるたびにOh…とへこむのだけど。

いっつも思うのだけど何を持って推敲したらいいのか分からない。会社の資料は簡単で、客先に訴えたい自分たちが提供できる価値と客先が儲ける仕組みさえ明確ならばそれに即しているのかいないのかで即決できる。コンセプトとゴールの決め方への適応度が論理展開に説得力を生むし、正論だし、正論故に強いし、強さゆえにちょっとした反論にも負けない。でも小説って……エッ?ショウセツデスカ?イヤー…ってなりませんかね?

だからこんな本を買ってみたりしたのだけど、書いてある内容はむしろビジネス本の「ストーリーとしての競争戦略」とほぼ同義だった。(「ストーリーとしての競争戦略」はいい本なので雇われの身でも自分で商売されてる人もおススメです。)

そしてこれを買おうかすごく迷っている。

ストーリーの筋じゃないんだよな、どう描くかなんだよな。書いてるだけで恥ずかしくなってくる。そういう青い臭い感じにみられてるんだろうな。谷崎と芥川の論争ににたようなものありましたよね、忘れちゃったけど。
仕事が忙しいなりにも必死で作った時間で話題の「三体」を読んだけど面白くて、面白悔しい。貪るように読んだ。ストーリースゴイ。勝てない。こんなの面白いに決まってるじゃん。

こんなの面白いに決まってるじゃんで思い出したけど、いつかの細かすぎて伝わらないモノマネで、戦隊ものの衣装来た人が幼い男の子役の人が滑ってピンクのマスクをとっちゃたら中はおっさんで、あっ…ってなって床が開くみたいなショートコントに対して、バナナマンの設楽さんが笑いながら「汚ねえなあ、こんなの面白いに決まってるよ。」と言ってたのを思い出した。三体を読んだ時の私の感想も同じく「汚ねえなあ、(宇宙人が攻めてくるなんて)こんなの面白いに決まってるよ。」だった。(これは賛辞の言葉です。)
私が細かすぎて伝わらないモノマネで好きだったのは、雅楽の人だ。まず説明を長くするのだけれど何を言ってるのか分からない。そのあとも雅楽の演奏者のモノマネをやってるのだけれど雅楽の演奏に明るくないから似てるのかどうかさえも分からない。でも面白い。そういうのがいいよね、なんでかよくわからないけど凄いもの。

パスカル・キニャールが大好きなんだけど、あれもよくわからなくてでも凄いから好き。小説ってある程度の長さがあるのが一般的じゃないですか。あの長さにおいて短歌や自由詩や俳句における表現の強度を移植しようとするとエライことになるんすよね、まるで読めない。当然「…?」みたいな反応が大半で非常にさみしい。パスカル・キニャールでさえそうなる人が大半じゃないのかなあ。クロード・シモンとかも大好きなんだけど、変人扱いされるからね…。悲しいね。
長さがあって、読んだらまあある程度は理解できる筋があって、それでも凄さだけはストーリーでもないしキャラクターへの共感でもない、分からないものがあるのってどうやったら作れるんでしょう???素材となる文章群をどうfixしたらそんなふうになるのか見当もつかない。推敲の方法について考えなきゃいけない。できた原稿を交換してお互いの感想をまとめて、とかそういうことをしたいな、まずは。誰かいませんか?

ということでそろそろ眠たくなってきたので寝ます。いま0時32分。

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