はがれた景色⑨

第43回すばる文学賞 一次選考にて落選

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かえってきたちえはサッカーをしていたようで、ようふくの前めんをどろをぬりたくってかえってきた。りん人のきしたにはもうしわけなさそうなかおをして彼のむす子とおもわしき、ちえとおなじぐらい、しょうがっこう入ったぐらいのとしごろのおとこの子といっしょにおくりとどけてくれた。りん人おやこはくつにはねたどろがついているていどであり、そのようすをみくらべて有里子はすこしちえをたしなめた。どうしたらこんなにどろだらけになるの?
「サッカーたのしかったから!」ちえはまんめんのえみでそうこたえた。きしたにはばつのわるそうなかおをして、「すいません、一緒に遊んでいたらつい夢中になってしまって」「いえ、面倒見ていただいただけでも、ほらちえちゃん、おじさんにありがとうは?」「ありがとう!」
りん人おやこはえしゃくをし家にかえって行った。おとなしかったおとこの子は、父おやにさっきまでのよいんを大きなこえでうれしそうにかくちょうしている。ちえを家のなかにいれながら、しかいのきれはしにえがおのおとこの子がドアのむこうにきえていったのをとらえていた。
蜜は玄かんまでむかえにいき、どろだらけになったちえにおどろきわらい、ようふくをぬがせ、あせだらけになったからだをあらうためふろ場にうながした。有里子はちえにシャワーをあびさせ、蜜はようふくについたどろをおとし、せんたくのじゅんびをする。バスタオルにくるまり水ぶんをふきとったちえは、よういされていたあたらしい下ぎとふくをきて、母と祖母のいるいまにむかおうとした。だつい所にりんせつしているへやぼしようのハンガーには、さっきまできていたどろだらけのスカートがほされていた。
いまはまどがあけられており、かぜが玄かんのほうへながれている。ちえはローテーブルのまえに、ゆかにちょくせつこしをおろしている有里子のとなりにすわった。有里子はたべかけだったカステラをちえにすすめたが、ちえはいらなかったようで、となりにすわることにこだわっていた。
「ちえちゃん、ずいぶんたのしそうだったね。」蜜がちえにはなしかけると、ちえはカステラをくちにしようとしなかったぶん、うん、とおおきなこえでこたえた。カーテンはすこしだけなみうっていた。ゆかにおとされたひのひかりは、鳥のかげをときどきふくみながら、まだ少しつめたいあかるいフローリングのすきまにはんしゃする。ちえはえものを取りそこねたねずみとりのようにたちあがり、蜜のもとへはしっていった。そうして蜜にむかってしんこくそうなかおをしてといかけた。
「おばあちゃんもおかあさんも、かみのなかにいるの?」
蜜はちえのしんこくそうなかおを受けとめ、どうしたの、だれからかにきいたの、とやさしいがけわしいこわいろだった。ちえはさっきりん人おや子とサッカーをあそんだあと、こうえんからのかえりみちにおとこの子からおしえてもらったといった。おとこの子は、ぼくらがいるせかいはかみのうえのようなところで、ほんとはペラペラのうすいところからはどこにもいけないのだという。どうしてそんなこと知ってるのとちえがとうと、お父さんにおしえてもらったんだと、おとこの子は自まんげにかたっていた。ちえはそのときはなんともおもわなかった、え本の中のおにやかいじゅうがかみのせかいからとび出して、いえじゅうをあばれまわられたらこまる。だいじなおにんぎょうやぬいぐるみだってとられかねないし、お父さんもお母さんも、ちえ自しんも食べられてしまうかもしれない。だからかみのせかいから出られないことは、ちえにとってつごうがよかった。でもテーブルのうえからかカステラとそらになったティーカップ、むこうがわにみえるカーテンのゆれをみた時に、おわりをよみとった。どこにいってもおなじ、どこでもみたことがあるし、あのおとこの子のおうちにもあるだろうながめ、どこかに行こうとしてもそのげんかいがあることに、こわくなり、ただたしかめなくてはならないと、ちえはおもっていた。
「おばあちゃんもそう思うわ、わたしたちはきっと紙の中にいるのね。」蜜はしばらく、すう秒だけじかんをあけてこたえた。ちえはずっとみけんにしわをよせていた。あまりほしくないこたえだったのかもしれない。「ちえちゃんは、それはちょっとだけ悲しいことなの?」と蜜がいうと、ちえはだまってうなずいた。蜜はちえにテーブルチェアにこしかけるようにうながした。ちえはうわっつらはすなおにしたがい、いすにすわったが、けげんなうたがいをはらむ目はそこにいすわったままだった。蜜は仏だんのある和しつにむかい、たんすの下のだんからじょうまえのついた木ばこをもち出してきて、そのかぎをあけ、中からちゃいろくへんしょくしたすうまいのしゃしんを取りだした。
「この人はね、ちえちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんと結婚した人。」そうゆびさされた先には、ほそみのだんせいがうつっていた。なん人かいたがそのひとりだけこちらをむいておらず、ななめ上のほうをむいていたが、まんめんのえみだった。ちえは祖母がなにかいわんとしようとするまえに、彼女のなかにけりがついたようで、ちえもまたみたえがおで、ありがとうといった。蜜はまんぞくそうにしゃしんを戻して、かぎをかけ、もとあったばしょに木ばこをもどした。有里子はそのようすを自ぶんのおさないころの切ぬきのきおくとくらべていた。蜜は有里子がだだをこねたりふあんそうにしていると、いつもあのしゃしんを見せてくれた。なぜだかわからないが、それでいつもおさまっていたらしい。

孫と娘がかえったいまは、かぜだけがしめているのだが、ぬくもりのあるざいすやコップについたくちびるのあと、自ぶんののどのいたみがそんざいのざんしとしてへや中にはりついている。それもそのうちなくなる、あしたにはじぶん自しんでもぐたい的になにをはなしたのかおぼえていないだろう、せっきょく的にわすれないようにしようとしないかぎり、何かにそのきおくのひっかかりをたくさないかぎり、しまいこんだば所はいりくんでからまりあい、引きだすことはそうそうできることじゃない。それでも不いにおもい出させるせかいにおけるあれこれについて、できうるかぎりせい理をし、引きうけうるかぎりをひき受ける。まだ六つのまごにはなしても分からないとはおもったが、あの子はかしこいようで、しゃしんを見せただけで何か彼女のせい理ができたようだ。
蜜は和しつにむかい、仏だんにむかった。マッチに火をともしろうそくにうつす。せんこうをふたつにおりろうそくの火の先につけ、たちのぼるけむりをこうろの中にそっとおいた。かねをならし、めをつむり手をあわせる。きょうはとてもたのしかった。ひさしぶりにあなたのしゃしんを見ることができましたよ。目をひらいてろうそくの火を手であおいでけした。
さっきまであれだけはれていたのに少しこいはい色をしたくもがちらついている。たいようからくもに切りとられたひかりはちかくの山をてらし、そのぶ分だけみどりが活きづき、まだらになるこきゅうはふき上がる土にかおりをあたえ、彼女のもとまでやってくる。少しまどの外をながめていたがすぐにあらいものにとりかかる。せんざいであわ立ちすすがれきれいになるしょっきたちから、ゆび先のおんどや目じりのきんちょうがきえて、いつものただのしょっきとなった。
しずくを拭きとられたティーカップのあかいつるのようなそうしょくをみて、ちえのいったかみの上のせかいについておもいだした。となりのきしたにさんはだい学でぶつ理をおしえているせんせいだったはず、前にも買いものがえりいっしょになり、どんなおしごとをされているのかを聞いたときそんなことを言っていたのがいまさらになっておいかけてくる。まだ水がつめたいようでかんそうしたゆび先がすこしにぶる、そういえばと、やかんになみなみとはいっているほうじちゃを思い出し、ひにかけあたため直し、ゆのみにいれてテーブルチェアにこしかけた。あか色のへんこうがへやにこびりついた記おくを浮かびあがらせる、どろがかわいてはがれるように、人やけもののかげがうかぶ。蜜はどうしてもたしかめたくなった。夫がかつて引ようしたことばがなんだったのかを、ほんとうに自ぶんはわすれてしまったのかを、いまそのきっかけが示されたのではないか。本だなにむかって戸をひらき、さっきなおした本を手にとる。とり出したとたんに手をすべらせてしまう。床にふせられたかっこうになったそれをひろいあげ、おれてしまったページのひだりはしに、あか色のボールペンでせんが引かれているところがある。蜜は幸せだった。

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