蜀咏悄_2018-09-30_9_24_03

路上緑化 備忘録②

石川初著『思考としてのランドスケープ』へ宛てた、アジア都市研究者の林憲吾の書評を紹介します。

「私たちの身の周りの現象は、さまざまな異なるスケールの事情で成り立っている。
どういうことか。例えば、路傍の雑草を考えてみよう。アスファルトの裂け目にわずかに露出した土壌。地面の勾配を伝ってそこに浸透する水分。それなりの日当り。
雑草が姿を現すには、そうした環境が整わなければならない。雑草は局所的な環境に多分に左右される。
だが一方で、より広域の事情とも無関係ではない。そこに降る雨の量や寒暖の程度は、地軸の傾きや大気の循環といった地球スケールの振る舞いと関係し、外来種が生えていたとすれば、グローバルな社会経済活動の現れでもある。
本書が示すのは、こうした局所と広域の異なるスケールの論理が重なる場として「地上」を捉える思考方法である。」

林さんが言うように、それなりの環境が整っていなければ植物は生長できません。

逆に言えば、植物が生長できる場所には「それなりの環境」が存在していて、

これを敷衍して浮かび上がる、光や熱みたいな目に見えない「それなりの環境」が、植物に目を向けると見えてくるんじゃないか、という仮説に興味があります。

例えばコレ

路端に生えるヒメツルソバ

路端にヒメツルソバが繁茂しています。路面は連続していますが、植生は連続していません。
よく見ると、ヒメツルソバの足元に側溝があります。道路ではふつう側溝に向かって水勾配がつけられているから、雨水は側溝に向かって流れるし、落葉は自然と側溝の廻りに堆積して腐食していきます。

この道路は幅員5–6mで東西に伸びていて南面建物もそれほど高くないため、日当たりもまずまず。

あとは種子さえあれば植物は生えてくるでしょう。

こんな感じに、ヒメツルソバをきっかけに側溝の存在に気づき、その背後にある「それなりの環境」を構造化できます。

植物がなければ、側溝の存在にも気づかなかったでしょう。

植物は、僕ら人間のように気分やノリに行動を左右されることがありません。
種の保存のため、環境に対してとても素直にふるまいます。
だから環境という複雑系を、ある程度単純化して理解することができるのだと思います。

「路上緑化」は、今回のように場所の根拠として見ることもできるし、
あるいは表象としてアウトプットすることもできる、と思っています。

極論、雑草一株をデザインの根拠とすることだってできる、かも。

備忘録としてメモ

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