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■『もの語る法華経』第2回 法華経の名前

◆法華経の名と人の振る舞い

 今回は、法華経の名前を、僕がどのように捉えているかという結論からお話したいと思う。
 妙法、サダルマを 「人の美しい振る舞い」と僕はみる。
 蓮華、プンダリカを 「人の振る舞いの美しさを喩えたもの」とみる。

 なぜ、このような捉え方に至ったかというと、青年時代にぶつかった日蓮の次の言葉に淵源がある。

 「不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひにて候けるぞ。」

崇峻天皇御書(昭和定本1397,平成新編1174,御書全集1174)

 この文は日蓮の在家の弟子である四条金吾がその信仰ゆえに主君から叱責と処分を受けるという受難のさなかにあった時、金吾がとるべき対応と振る舞いについて厳しい指導がなされた書簡の中に見える一節である。
 この一文に触れて、当時僕は電撃に触れたようなショックと感動を受けたものであった。その時、僕が理解したのは、「仏法が教えようとしているものは、難しい理論ではなく、ことに臨んで、その時、自分がどのような振る舞いをなせるか、それが問題なのだ。」と言うことであった。その理解は、今もそんなに外れていないと思うが、分からなかったのは、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひ」という発想がどこから出てきたのかと言うことであった。「出世の本懐」という言葉と「人の振舞ひ」ということがうまく結びつかなかったからである。
 人に尋ねることも出来ず、自分の内に秘めてずっと温めてきた問題であった。それがようやくこの歳になって絡まった糸がほぐれるように見えてきたように思われる。
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひにて候けるぞ」という発想の源は法華経のお題目そのものにあったのだ。

◆ なぜ羅什はサッダルマを妙法と訳したのか?

 羅什が漢土(中国という呼び名は羅什当時、インドのことであった。羅什自身は漢土を秦と呼んでいる)にやってきた時、すでに法華経は伝来しており、漢訳されていた。『正法華経』である。そこでは、サッダルマは「正法」と訳されていた。ところが羅什はサッダルマの訳として「正法」では満足出来ず、改めて「妙法」と訳し直したのである。だが羅什は現代のように訳注などつけてくれなかったから、なぜ、羅什が「妙法」と訳したのかについては誰も確たることは言えない。しかし、この問題をいつまでも放置してはならないし、無視すべきではない。現代においてはなおさらである。
 よく漢文の仏教書や口伝書などで「妙とは不可思議なり」という言葉が出てくる。天台智顗の『法華玄義』が源である。

「所言の妙とは、妙は不可思議に名くるなり。」

(T33-p0681a)

 ただ智顗の名誉のために言えば、智顗は「妙は不可思議という意味だ」と述べているのではなかろう。「思議すべからず」ということで、「漢字の字義を調べてあれこれ考えるのはよせ」ということ言いたかったのだと僕は捉えてきた。じっさい「妙」(古くは「玅」)の字の由来は老荘思想にあり、そこを追いかけても仏教から離れてあらぬ方向に流されてしまうだけだ。
僕に訓読させてもらえれば
「妙は思議す可べからざるを名づくるなり。」と読みたい。
 けっきょく智顗のやり方は、分からない字が出てきたら、そこをすっ飛ばして、どんどん読み進めて行けば、そのうち分かってくると言う普通に僕らがやってきた方法と同じように思われる。
 とはいえ、現代ではダイレクトにインドの言葉や文化に接触できるようになってきたのであるから、「なぜ羅什はサッダルマを妙法と訳したのか?」について、あらためて思索をはじめたいと思う。

◆ 羅什は妙法、サッダルマを多義に捉えていた。

 近代に入って、多くの訳者が梵語から、直接法華経の和訳をこなし出版されるようになった。慶賀に堪えない。ただ僕には一つ気がかりなことがある。岩本裕博士以来、最近の植木雅俊博士にいたるまで、おしなべて「サッダルマ」を「正しい教え」と訳していることである。そこに「正しい」という意味もあることは僕も否定しない。しかし法華経に特化したとき「サッダルマ」という成語を「正しい教え」と訳していて良いのかという疑問である。僕の疑問は「正しい教え」にさらに別な修飾語を被せようと変わらない。
 誤解を避けるために申し上げるが、僕は「正法」か「妙法」かというような古い議論を蒸し返しているのではない。そうではなく、「妙法」「サッダルマ」は一義なのか、多義なのか、という問いかけである。もし多義ならば「正法」や「正しい教え」なる一義に訳しているのは「おかしいでしょ」ということである。
 ここで、念の為に僕が読んできた全ての梵文和訳の法華経を列挙しよう。読者の皆さまには少々煩雑かと思われるがご寛恕願いたい。

1 梵漢対照新譯法華経 南條文雄博士・泉芳憬氏 共訳 平楽寺書店(1913)訳文中に「方廣妙法蓮華經王」
2 法華経新訳要集 本田義英博士訳 平楽寺書店(1951) 「妙法蓮華經(このよのたから)」
3 法華経 岩本裕博士訳 岩波文庫1968 1976 「正しい教えの白蓮」(岩本博士の訳は古い版と新しい版でかなりな書き換えがみられる。)
4 定本和訳法華経 渡辺照宏博士 渡辺照宏著作集6所収 筑摩書房1981 「正法芬荼利華經」
5 大乗仏典4法華経 松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義・桂紹隆 各氏共訳 中央公論社1976 1988新訂3版「正しい教えの白蓮華」
6 現代語訳法華経 中村瑞隆博士 春秋社1995 「妙なる教えの白蓮華」
7 現代語訳大乗仏典2法華経 中村元博士 東京書籍2003 訳文中に「正しい教えの白蓮華」p41
8 梵漢対照・現代語訳「法華経」 植木雅俊博士 岩波書店2008 「白蓮華のように最も優れた正しい教え」
 この他にも謄写印刷等の若干の訳が手元にあるが、ここでは割愛して広く公刊されたものに止めたい。

 さて、岩本博士以来の諸訳については、すでに植木博士によって詳細に批判されているので、ここではもはや述べない。検証したいのはその植木博士の訳である。なお、博士の所論を検証するに当たって参照したのは、『印度學佛教學研究』第49巻第1号 平成12年12月所収論文
「Saddharmapuṇḍarīkaの意味」である。
 ネットの『印度學佛教學研究』のサイトから当該論文の全文がダウンロードできるので、皆さまにも是非ご一読願いたい。
 植木博士は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」と訳されている。

 しかし「最も優れた」なる語は梵語文の何処にも無い。しかし博士は「白蓮華」にその意味があるとされた上で、「最も優れた白蓮華」とも訳さず、「最も優れた」を白蓮華から切り離して「正しい教え」と合体させて「最も優れた正しい教え」と訳したという。そしてそれはパーニニの梵語文法に忠実な訳なのだという。また羅什が「妙法」と訳したのは「最も優れた」なる意をそこに込めたからだという。

 上の僕の要約文は、そう外れていないと思う。ただ僕が要約するより、博士の文章を直接引用したいのだが、博士の当該論文は非常に難解で、何処をどう引用すればよいのか、わかりにくい。そこで博士の論拠を正確に知りたい方は、長い文章ではないので、博士の論文を直接お読み願いたい。

 ここでパーニニの梵語文法を引き合いに出されているので、僕など、そうそうに退散するしかないのだが、羅什が「妙法」と訳したのはその所為だと言われると「ちょっと待って下さいよ」と踏みとどまらざるを得ない。
 本当にそうだろうか。じつは羅什は「白蓮」とは無関係な所でも「妙法」の訳語を使っている。序品の「妙法緊那羅王」である。植木博士の訳本では、「スダルマ(妙法)キンナラ王」(上巻p9)とされている。ここには「最も優れた」なる義は無い。渡辺照宏博士はここを「善法緊那羅王」(渡辺博士前掲書p205)と訳している。
 では「スダルマ(sudharma)」を荻原雲来博士の『梵漢対照梵和大辞典増補改訂版』で引いてみる。人名としては「妙法」の他に「善法」とあり、周辺を探れば「正義を行う」など実践的な概念と結びついていく。とするならば、羅什は「妙法」「サッダルマ」を「正しい」だけではなく「善い」をも含めた、もう少し多義的、実践的なものと捉えていたのではないかと思われてくる。だから羅什は「正法」では満足出来なかったのであろう。だとするならば、「妙法」の訳はパーニニの文法とは関係がないのではないか。

◆ 「sat」の意味

 ここで視点を大きく変える。「サッダルマ」は「sad+dharma」という複合語である。この「sad」は字書にはあまり出てこないのであるが、中央公論社の松濤・長尾・丹治・桂各氏共訳本の訳注には「sat(=sad)」前掲書Ⅰp260と注されており、何よりも植木博士は大学での講演記録の中で「サッダルマ(saddharma<sat-dharma)」{*1}と注されている。梵語は格変化がわからないと満足に辞書も引けない。僕などいつも四苦八苦しながら辞書を引いている。こういう注はありがたい。この「sat」を辞書で引くと多くの義が出てくるのであるが、ただ僕の関心の向かう先は、法華経が語り出された当初、「sat」がどのように認識されていたのかということにある。辞書に多義が示されていても、辞書は言語史の集積であるから、当時の人がどの義を主に捉えていたのか分からない。
 そういうことで、僕はインドの古典を努めて読むようにしているのだが、その古典の一つ『バガヴァット・ギーター』を読んでいて、第十七章に至って、僕はアッと叫んでしまった。そこに僕が求めていた言葉がズバリ出てきたからである。『バガヴァット・ギーター』は梵語で書かれた聖典である。少し長くなるが上村勝彦博士訳で関係箇所を引く。

#17 -23 オーム*(聖音)、タット(「それ」)、サット(実在、善)は、ブラフマンを指示する三種の語であると伝えられる。これにより。かつてバラモンとヴェーダと祭祀とが創造された。(23)
(中略)
#17 -26 「サット」という語は、実在という意味と、善という意味で用いられる。また、「サット」という語は、讃えられる行為について用いられる。(26)
#17 -27 そして、祭祀と苦行と布施における〔窮極の〕境地が「サット」と言われる。また、それのための行為も「サット」と呼ばれる。(27)
(後略)

(『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦博士訳、岩波文庫1992、p129)

第26節の梵文は次の通り
Sad-bhāve sādhu-bhāve ca sad ity etat prayujyate /
Praśaste karmaṇi tathā sac-chabdaḥ pārtha yujyate //26

(『Śrimad Bhagavad Gītā』日本ヴェーダーンタ協会2006、p199)

 『バガヴァッド・ギーター』については、今少し説明が必要であろう。実は『バガヴァッド・ギーター』の内容はここ以外にも法華経と響き合う文言が多く出てくる。『バガヴァッド・ギーター』の成立と法華経の成立には両者は深い関わりを持っていることは否定できないだろう。『バガヴァッド・ギーター』はヨーガの聖典でもあり、日本のヨーガ修行者でも『バガヴァッド・ギーター』を原文で読もうと梵語を習う人が増えているようである。ところで梵文法華経にはこのヨーガ修行者が登場する。序品においてブッダの眉間白毫相に照らし出された仏の世界の中にヨーガ修行者がいる。

△UA-11 また、それらのブッダの国土において、ヨーガの行者や、ヨーガの実修者たちで、果を得たものと、果を得ていないものであるところの男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たち、それら〔の四衆たち〕もまたすべて観察された。

(植木博士訳上巻p11)

 このヨーガの行者やヨーガの実修者たちは明らかに仏教サンガの中の人々として描かれている。仏教学のなかでは、龍樹たちの中観学派とは別に、世親を代表とする唯識学派があるが、この唯識学派はヨーガの伝統を引いている。その世親が『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著している。そしてこの世親の『法華論』は羅什訳『妙法蓮華経』と深く響き合うものを持っている。
 となれば、『バガヴァッド・ギーター』の内容を法華経と無関係として排除する理由は何もない。ご一読をお勧めする。ただテキストは上村勝彦博士のものから入られるのがいいと思う。テキストによってはかなり神秘的な方向で訳されているものがあるからだ。

 まさに、「サット」という語は、特別な言葉であり、実在という意味と、善という意味で用いられ、さらに「サット」という語は、讃えられる行為についても用いられていたのである。
 さらに「dharma」という言葉も、法や教えという意味以外にも美徳や善行そのものを指す場合もあるようである。(『梵漢対照梵和大辞典増補改訂版』参照)

 こうなってくると、もはや「サッダルマ」を単に「正しい教え」等と訳しているのは十全ではないことは明らかであろう。羅什の苦心を無にしてはならない。
 さて、僕の考察はまだまだ続くのだが、ここでもう一度、冒頭に掲げた僕の結論を引いて、僕の語りを整理したいと思う。

 妙法、サダルマを 「人の美しい振る舞い」と僕はみる。
 蓮華、プンダリカを 「人の振る舞いの美しさを喩えたもの」とみる。

 僕の語りの筋は通っているだろうか。「讃えられる行為」とは「人の美しい振る舞い」と言い換えても問題は無いと思うが如何だろうか。そうであるならば「蓮華、プンダリカ」を 「人の振る舞いの美しさを喩えたもの」と見なしても問題は無いと思う。

◆ 「白蓮華」についての考察

 羅什訳法華経と梵文和訳の法華経を比較して感じるのは、羅什はどうして「プンダリカ」を「蓮華」と訳したのかという疑問である。
 植木博士は講演記録の中で

「インドでは「白蓮華」というのは「最も勝れたもの」という象徴的な意味を持っているのです。」

創価教育第7号所収講演記録p40

とおっしゃる。同様のことは中村元博士も述べられている。

「インド人は白い蓮華の花を至上の最高の花と思っています」

(中村元博士前掲書p20)

 しかしこの説は、どこまで普遍性を持っているのであろうか。というのもインドの国花はパドマであって、プンダリカではない。どうしてインドの人々は「最も勝れた」はずのプンダリカを国花にしなかったのであろうか。インドの神々が手にするのも多くは赤いハスの花であって(インドの細密画参照)、白いハスは稀である。どうしてインドの人々は自ら敬愛する神々に「最も勝れた」はずのプンダリカを捧げないのであろうか。
 僕は歴史的に見て、白いハスを最も愛する人々がインドにいたことは否定できないと思う。しかし人の好みはそれぞれであってよい。移ろいゆくものでもある。むしろ花の色に序列をつけ、それを絶対化することは仏教の経典として無理があるのではないだろうか。
 さらにまた、梵文法華経においても、羅什訳妙法蓮華経においても「白蓮華」を取り上げてことさらに賛美することはなんら為されていない。法華経薬王品には大陽や須弥山など十種の喩えをあげて法華経の最勝なることをこれでもか、これでもかと讃歎しているが、なぜか、そこに白蓮の譬喩がない。白蓮の譬喩を加えて十一種としても良かったと思われるのにそうしていない。

 「最勝」なる義が大切なことは、インドを代表する論師の一人である世親(ヴァスバンドゥ)も『法華論』の中で法華経の別称として十七の名を挙げ、その中に「最勝修多羅」を挙げている。

  二に、「最勝修多羅」と名づくるは、三蔵中に於いて最勝の妙蔵、此の法門中に善く成就するが故なり。

(T26-002c17)

 しかしそれは、十七という数ある別称の一つに過ぎない。最勝は法華経薬王品に語り尽くされたことである。法華経の顏となる本名とすることではない。むしろそんなことをすると法華経の本質が見えなくなってしまう、それを僕は危惧するのである。

 なぜかというと、自己の依経を最勝第一とするのは、すべての宗教者に共通することで、クリスチャンはバイブルを、ムスリムはコーランを最勝第一とする。それは当然のことで、そうでなくては自らの信仰が成り立たない。だからそれはそれで良い。しかし最勝第一を自らの経典名とするならば、僕なら引いてしまう。

 最勝第一を自らの経典名とした例は他の経典にある。一つは『大日経』であり、太陽の譬喩をもって法華経の上位に置こうとした。もう一つは『金光明最勝王経』である。金色に燦然と輝く最勝の王だという。この列に法華経を並べようとするのであろうか。僕はそんなことに何の価値も感じない。

 植木博士はプンダリカの譬喩をもって経典名とされたものから、多くの隠れた寓意の一つである最勝第一義のみを、なぜ表に引き出す必要があったのであろうか。隠喩なら隠喩のままに訳せばいい。一つの寓意のみをあからさまにするのは一つ解釈であって、もはや訳業ではなくなる。そうなれば本来そこにある多義性が蒸発してしまう。それは古来、訳者が最もおそれたことではなかったか。

もう一度、植木博士の訳名を見てほしい。
「白蓮華のように最も優れた正しい教え」
もっとも・すぐれた・ただしい、すべて褒め言葉で埋め尽くされている。正しいと言うのも一つの判断である。真理とすべき一経の内容が全く消えてしまっている。名は体を表すと言う。申し訳ないが僕はこれが法華経の名前だと言われても、どうしても納得できないのだ。

 ここで古代インドの白蓮に関する最古の文献を幾つか挙げておく。

 『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』
 第三章 大願成就の祈誓
  「朝に至りて出でて、太陽を拜し、『儞(おんみ)は天の方處に於ける獨一の白蓮華(Eka-puṇḍarīkam)なり、我をして人中獨一の白蓮華(芬陀利華)ならしめよ』と唱ふ」

(『ウパニシャッド全書一』高楠順次郎博士訳、世界文庫刊行会1922、p166)

 ここでは白蓮華を太陽と人とに喩えている。
白蓮華を釈尊に喩える例は『スッタニパータ』にみえる。

  #547 麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」
@547. "Puṇḍarīkaṃ yathā vaggu, toye na upalimpati;
[toyena na upalippati (sī.), toye na upalippati (pī.), toyena na upalimpati (ka.)]
Evaṃ puññe ca pāpe ca, ubhaye tvaṃ na limpasi;
Pāde vīra pasārehi, sabhiyo vandati satthuno"ti.

(訳文は『ブッダのことば』中村元博士訳、岩波文庫1984、p116)

 ここに白蓮華を釈尊に喩えているが、注意すべきは法華経涌出品と同じ「如蓮華在水」の義が述べられていることである。しかも梵文法華経ではパドマであるが、ここではプンダリカとなっている。梵文法華経はなぜプンダリカとしなかったのであろうか。該当箇所を植木博士の訳本から引用する。

 anūpaliptāḥ padumaṃ va vāriṇā
bhittvā mahīṃ ye iha adya āgatāḥ /
kṛtâñjalī sarvi sthitāḥ sagauravāḥ
smṛtimanta lokâdhipatisya putrāḥ //46//
 大地を裂いて、今、ここにやって来たところの〔菩薩たち〕は、紅蓮華が〔泥〕水によって〔汚されることがない〕ように、汚されることはありません。〔それらの〕世間〔の人々〕の王の息子たちは、すべて尊敬の念を持って、念いを正して、合掌して立っています。(46)

(植木博士前掲書下巻、p209)

 釈尊が白蓮華で、弟子の地涌の菩薩が紅蓮華なのだろうか。それでは師弟一体の義が成り立たない。おそらくこれは法華経が歴史的経過を踏まえて白蓮華を尊重しつつも、社会の趨勢を見据えて紅白の差別を乗り越えようとしているのではないかと、僕には思えるのである。それからもう一つ『ウパニシャッド』『スッタニパータ』『法華経』の白蓮華、蓮華の譬喩に共通しているのは、どれも行為する人に向けられていることである。『スッタニパータ』#547が指すのは釈尊だとはいえ、サピアがたたえているのは神格化された釈尊ではなく、一人の師としての釈尊である。

 このように見ても、蓮華、プンダリカを「人の振る舞いの美しさを喩えたもの」とみる僕の結論はそう外れていないと思うが如何であろうか。

 法華経は長い時間をかけてガンジス川流域のインドから、ガンダーラ、パキスタン、アフガン、中央アジア、さらに中国へと流伝してゆく、法華経を拝し、支える人々のハスの花に対する意識も微妙に変わっていく。それで良いのではないか。現代のインドではスイレンもどのハスも皆、パドマだという。けっきょく羅什が訳した蓮華にはエジプトのスイレンもインドのパドマも中国の蓮花も日本のはちすもアメリカの黄蓮もみんな含まれてしまうのではないだろうか。そういう文化史的な視点があってもよいだろう。だから羅什は白蓮華にこだわらず、妙法蓮華経と訳したと僕は思う。
 2021年12月24日

◆ 追記

上記日付で、一応の脱稿をみたのだが、引用関係をチェックしていて植木博士の主張につき、大きな見落としがあることに気がついた。引用した博士の講演記録は斜め読みにしかしていなかったのだ。冷や汗ものである。その博士の主張に、次のようにある。

「鳩摩羅什は、サッダルマ(saddharma<sat-dharma)だけの場合は、「正法」と漢訳しております。サッダルマ・プンダリーカという複合語になっているときだけ、「妙法蓮華」と漢訳しております。プンダリーカを「蓮華」とした上で、「最も勝れた」という象徴的意味をこめて、「正」に代えて「妙」としているのです。」

(創価教育第7号所収p56)

しかし、これは本当だろうか。
 僕は博士の訳本を梵語文、和訳文ともテキストデータとして全文入力し、それ以前に入力していた春日本(日蓮所持本)のデータと組み合わせ文単位で(博士の訳本はページ単位の対照だが、これだと使いにくかったので)梵和漢対照のデータベースを作っている。療養中に自力入力したものだ。

早速、「saddharma」を全文検索してみた。膨大なヒットがあったが、そのうち「puṇḍarīka」との複合語を除くと、110例が残った。これを一文づつタグジャンプして検証する。
 博士の主張は一見当たっているように思われなくもない。しかし博士の主張のように「正法」と訳されているところをよく検証すると一定の傾向を持っていることがわかる。
 その大半は声聞授記の「劫国名号」が説かれる所で出現する。その「正法」は娑婆世界と無縁の他方国土の仏が所持する「正法」であり、もう一つの傾向は、ようするに正像末の三時における「正法」なのである。それを「妙法」と訳するのは逆におかしいだろう。そこを羅什が「正法」と訳した判断は順当なものである。「saddharma」単体だから云々という博士の主張には説得力がない。

例を示そう。

(k2.050)(t11b16)舎利弗よ、汝は未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干の千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩の行ずる所の道を具足して、当に作仏することを得べし。 g155,ia146,ua182,j026,mb035⊿

(k2.050)(t11b16)

舎利弗が未来世に何千万億の仏を供養して正法を得て華光如来たなったことを述べている。裟婆世界とは関係が無い。

(k2.071)(t11c10)舎利弗よ、是の華光仏の滅度の後、正法の世に住すること三十二小劫、像法の世に住すること亦た三十二小劫ならん。 g158,i a150,ua184,j027,mb039⊿

(k2.071)(t11c10)

ここは、まさに正法、像法の期間の長さを述べている。

単独で「妙法」と訳される例として提婆達多品があるのだが、これはどうなのだろう。現存の提婆達多品が羅什訳であるかは議論があるところである。一応挙げておく。

(k5.020)(t34c19)時に王は仙の言(ことば)を聞いて 心に大喜悦を生じ 即便ち仙人に随って 須(もちい)る所を供給し 薪及び菓蓏を採って 時に随って恭敬して与えき 情(こころ)に妙法を存せるが故に 身心懈倦無かりき g398,ib206,ub84,j105,mc045⊿

(k5.020)(t34c19)

なお、薬草喩品の後半など、羅什が訳さなかった所は検証の対象外とする。

また、方便品などの法華経の法門上、大事な所は「是法」「我法」という訳語を使っている。次の文は一大事因縁を語り出すところである。

(k1.342)(t07a20)所以は何ん。我は無数の方便、種種の因縁、譬喩の言詞を以て諸法を演説す。是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯だ諸仏のみ有して、乃(いま)し能く之を知しめせり。

(k5.020)(t34c19)

以上、「saddharma」110件の訳例を調べた。あるいは僕の入力データに誤入力があり、それでヒットしなかったものがあるかも知れない。その場合はご容赦願いたい。ただこれだけの検証でも十分価値がある。羅什が「puṇḍarīka」との複合語だと「妙法」に、単体だと「正法」にという訳し分けをしたという植木博士の主張は説得力をもたないことが明らかになった。何よりも僕が最初に提示した「妙法緊那羅王」の訳例一つで植木博士の主張の根拠はすでに崩れていよう。

2021年12月25日

{*1} 創価教育第7号所収p56 https://www.soka.ac.jp/files/en/20170804_031320.pdf


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