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夢みる大蛇

「儀式じゃ。」
「儀式?」
「月満ちる時、夕焼けと闇夜が入れ替わるその時間、あちらとこちらの世界が繋がるのじゃ。だがどこでも繋がるわけではない。神聖な場所でのみこの世の理を超える事ができる。例えばここじゃ。」
「神社?」
「そう。お前はばぁちゃんの子だからのぉ。必要な時がくるかもしれん。特別に教えちゃる。」
 
遠くから烏の鳴き声が聞こえてくる。空は赤々と照り光り、この世を全てを覆い隠そうとしているようだ。
「よぉくお聴き。」
 
さっきまでうるさかった蝉の声がボリュームのつまみを落としたかのようにスッ、と小さくなる。空が、大気が、地面が、息を潜めてその瞬間を待っている。
 
「そう、まさに今、夕焼けと闇夜が入れ替わる時、全ての境目が曖昧になる。その時に、核となるものを中心にぐるっと回るんじゃ。くるりと、階段を降りるように。そうしてもう一度入ってきた場所から出る。そうすると」
 
境内を手を引かれながら一周した。
 
「すると??」
 
身体から心臓が飛び出したがっているかのように汗ばんでいた。
 
「あちらの世界が拡がっておる。」
 
次の日、ばぁちゃんはいなくなったんだ。
 
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日常
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「ばぁちゃんがいなくなったって、急に?」
 
ミクがマスク越しに笑う。息でゴーグルが少しばかり曇っている。
 
「でもオレ、お前のばぁちゃんの葬式出たぜ?」
 
「ばぁちゃんの顔、見てないだろ?あの棺桶、空だったんだよ。」
 
「え、まじで?!家族はなんて言ってたんだよ?」
 
「こら、テル。詮索しない。サトルも好きで話してるんじゃないんだから。」
 
「いいよ。僕があのおっきな蛇とばぁちゃんが関係あるかもって言い出したんだから。」
 
「あいつか。」
 
テルが指さした先には、街が拡がっている。ビルがところどころ伸びているが下の方は霧で包まれていて見えない。
 
「そう。」
 
あの日、ばぁちゃんがいなくなったあの日、僕らの街に大蛇が現れた。暴れるでもなく、人を襲うでもなく、大木を思わせる巨体を直立させてただただ鎮座していた。自分のテリトリーに入るものを除いて。
 
「もしかしたら、あれ、サトルのばぁちゃんなんじゃね?」
 
「バカ!」
 
「ミク、いいよ。うちは神社だから。あり得ない話じゃないさ。」
 
どんな銃器だってあの怪物には敵わなかった。普段はおとなしいあの蛇も、ひとたび敷地に敵が入ってくるとおぞましい化け物の顔を覗かせた。そのうちに大人はみんな諦めて、受け入れることにした。
 
1度目の諦め。
 
「もういいじゃん、その話はさー。ね、それよりさ、今日の夜ライブいかない?あそこなら屋内だし、このマスクもつけなくて済むよ。」
 
あいつが現れてからしばらくして霧が発生した。そのうち霧は街を覆うようになったけど、僕らには何も別状をもたらさないように見えた。2.3週間経ったころ、高熱を出す人が出てきた。そして必ず亡くなった。マスクをして街の出入りを制限する事で受け入れた。
 
二度目の諦め。
 
「今日ってバシェのライブだっけ。ほんとに最近ビッグネームが来る様になったよなぁ。」
 
「わたし、封鎖されてからのこの街、好きよ。新しく大きなショッピングセンターも出来たし。ライブには大物が来るようになったし。」
 
「音楽好きなサトルとミクにとっては最高だよな。」
 
僕らの街は首都圏に隣接している。夜だけしか帰ってこないが、人口だけみるとかなりの数だ。そのかなりの数の人たちが閉じ込められたのだ。当然経済活動は止まると思われる、それに伴い補助金も投入された。
 
そうすると一店、また一店と飲食店が出来始めた。ついにはライブハウスや劇場といった娯楽施設が立ち並び、国内随一の歓楽街が出来上がった。
 
物流、人流を制限された故に出来上がった経済特区だ。
 
「じゃ、今日の19時集合ね。遅れるなよ。」
 
「遅れるとしたらお前だろ。サトルはどうする?」
 
「僕はもう少し、さんぽして帰るよ。」
 
「おっけ。じゃああとでな。」
 
二人が戯れあいながらダムを迂回して降りていく。その光景が微笑ましくて、愛らしくて、ちょっとさみしかった。
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変化
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ギラギラと光るネオンが地面に反射する。ぐっと冷え込んだ空気が、濾過装置を通じて鼻に流れ込む。
 
「さぁ、あなたも、その一歩を踏み出そう。」
 
「いやー、最近ほんとにさむーなってきましたねー。こないだもライブで僕がギャグを言うたんびにどんどん肌寒くなってきましてね。」
「あんたのせいやろ!」
 
「お土産に、たっぷりチーズのフロマージュを。」
 
人の通りが増えると広告が増える。それを象徴するかのようにこの街では至る所に宣伝が流れるようになった。噂では首都圏よりも広告費は高くなったようだ。
 
ゴミが散らばる路地裏を抜けると裏通りに出る。都会の喧騒が一瞬だけ音量を下げ、雨音がひたひたと聞こえてくる場所に入り口への階段がある。
 
「サトル!」
 
急に後ろから声をかけられた。
 
「時間通りだな。さっさと下降りようぜ。」
 
「ミクは?」
 
「遅刻かな。」
 
「結局ミクか。」
 
「ま、そうカリカリしなさんなって。」
 
そういうとテルは僕の手を引いて入り口へと進む。薄暗い階段がかなり続く。ひんやりとした空気が壁から跳ね返ってきて身体を刺す。下まで降り切ると分厚い扉が僕らを待ち受ける。
 
扉を開けると、そこは別世界だ。
 
「遅かったね。」
 
「ミク、先に入ってたのかよ。遅刻かと思ったぜ。」
 
「あんたたちが遅いのよ。」
 
「お客様、そちらで立ち止まらず中の方までお流れ下さい。」
 
エメラルド色の光があたりを包み、薔薇色の絨毯から跳ね返ってくる。全面が窓になっていて、右を向くと海岸線の向こうには夕日が沈んでいる。反対側では砂漠が広がっていて、岩岩の間から朝日が登っている。
 
「もう景色は見飽きてるでしょ。さっさと奥に行きましょ。もうショーがはじまるよ。」
 
「まって、まだチケット買ってない。」
 
「もう3人分買ったわよ。転送しといたからそのまま通れるはず。」
 
「まじか、めずらしい!ミクのおごりか?」
 
「ばーか。あとでパンケーキ奢ってもらうから。」
 
「なんだよ。せっかく見直したのに。」 
 
そう言いながら僕らは奥の窓に手を添える。真ん中に赤い閃光が走ると二手に別れると廊下が現れた。暗がりの中、奥へ進むと道が開けてくる。眩いばかりのシャンデリアと共に心地よい弦楽四重奏の音が聞こえてくる。
 
「あたしらにはここは早いでしょ。お目当ては、こっち。」
 
ミクはバカラとポーカー場の間を抜け、壁に手を当てた。薄緑のセンサーが僕はをスキャンする。壁の上には"3"の数字が浮かび上がる。
 
「楽しみね。」
 
ミクが入ると数字は一つ減る。
 
「サトル、行くぞ。」
 
そう言って壁の中に消えていくと、数字はまた一つ減った。
 
いつも変な気分だ。僕は変わっていないのに周りだけがどんどん変化する。こんな場所じゃなかった。こんな街じゃなかった。なぜかみんなその変化に喜んで、順応して、変わっていく。いつのまにかばぁちゃんもいなくなった。三人の関係もいつか終わってしまうんだろうか。世界が僕を置いていく。
 
壁を抜けると、そこはライブハウスだ。
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日常の非日常
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落ち着いた灰色のかべに落ち着いた白の照明が落ちている。部屋の中にはパイプ椅子が置かれ、ステージは無造作に置かれながらもいまかいまかと出番をまつ楽器が置かれている。
 
ドリンクを片手に歓談する人を尻目に、ミクは前の方を陣取る。
 
「また一番前かよ。バシェの音はでかいんだから後ろの方でもいいじゃん。」
 
「何言ってんの。でかいから近くで聞くのよ。全身で感じるの。」
 
クロード・バシェ。世界的なトランペッターで中々日本に来る事は無かった。新しいもの好きとして知られる彼にこの街は面白く映ったようだ。それだけじゃない。法外なギャラが支払われているはずだ。僕らは自由を失った。けれども新しい世界へ触れる切符も手に入れた。新しい広告。新しい建物。新しい技術。国の新たな実験にされながらも、僕らは新しい刺激を受け入れている。
 
「始まるよ。」
 
会場が暗くなる。人影が動く。ほのかに照明が差し込んできてひとりの人物を照らし出す。バシェだ。おもむろにソロが始まり、官能的な響きが場を包み込む。
 
音が肌にまとわりつく。息遣いが研ぎ澄まされていく。トランペットの動きに合わせてパーカッションが入り、ベースが合流する。グルーヴが会場全体を巻き込み渦を作り出す。劇場の鼓動が早くなる。風が舞い込んでくる。音色がますます輝きを増し、優雅に空間を拡げていく。音圧が身体の奥まで達して、ハイツェーが隅々まで響き渡る。
 
「ここだ。」
 
その瞬間、壁という壁が割れ、天井も床も全てが砕け散った。僕らは大空のど真ん中に放りだされ、どこまでも続く地平線を望んだ。曲は最高潮を超え、ゆるやかなセクションに入る。目下には真っ青な海原が広がり、カモメたちが横を飛ぶ。
 
ふと横をみるとミクが笑っている。テルも楽しそうだ。僕らはしばらく空中浮遊を楽しんだ後、島へ上陸した。曲はコーダに入り、バシェがソロで締めた。
 
「Thank you for coming today.I'm so thrilled to play here. This brand-new set is amusing me a lot. Hope you guys too. ANYWAY 楽しんでいってください!」
 
バラードが始まる。砂浜はだんだんと海を包み込んでいき、あたり一体が陸に変わっていく。なめらかな旋律に寄り添うように下からは草が生え始め、向こうのほうには森ができ始める。ギターが弾き始めると日はかげるはじめ、あたりはグッと暗くなる。見渡す限り、あじさい畑になるとうっすらと花びらの間から光が漏れる。
 
「この時間が、好きよ。」
 
ミクがそっと耳元でささやく。プログラムは終盤にさしかかり、光の球がそこら中に灯り始める。風がふくと、花は戯れ、絨毯の如く光も揺れた。日はとうの昔にくれ、満月あかりに包まれている。花の甘い匂いが充満する。最後の曲の最後のフレーズ。バシェの周りを蛍が包み、その光は星空のかなたへと消えていった。
 
「Thank you.」
 
曲が終わると割れた壁が戻ってきて、元の会場へと戻った。熱のこもった拍手で終わった。
 
外に出るとあたりのネオンは消えていた。雨上がりのように水分を含んだ空気がまとわりつく。
 
「よかったね。」
 
「うん。」
 
「わたしさ、美術館作りたい。」
 
ミクは真剣な眼差しをしている。テルは驚いた顔をする。
 
「人を感動させたいの。なんか、嫌なことっていっぱいあるじゃん。色んなとこに行きたくても行けなかったり、好きな人に直接会いたいけど会えなかったり。でもね、わたしさ、音楽とか絵とか、すっごい物見たら、あー、やっぱ生きててよかったなって思うの。この瞬間の為にこれまで頑張ってきたんだ。この瞬間を味わう為に今ここにいる。全てが報われる気がするの。」
 
そう語る顔はマスク越しでも輝いて見てた。その瞳はずっと未来を見通すように澄んでいて、心の底にたまる澱を透過する。
 
「だから私は美術館を作る。来た人も、発信する人も幸せになる場所を作るの。こんな時だから、こんな状況だから。私は私に出来る事をする。だから二人も協力して欲しい。」
 
「しゃーねーな。じゃあおれはサポート役だな。この中の、いや、この国の誰より偉くなって全力で支えたる。お前らがやりたい事精一杯出来る様に、幅きかせたるわ。」
 
「偉そうにならんといてな。理不尽になったらすぐクビやで。」
 
「なんでお前に首にされるねん。逆やろ。せいぜい支えがいがあるくらいおもろいもん作れよ。」
 
「サトルは?」
 
「僕は」
 
二人が幸せならそれだけでいい。それが僕にとっての世界だから。だからどうか、神様、壊さないでください。
 
「なんだよ、黙って。」
 
「ごめん。」
 
「変なの。サトルはなにしたいのよ。」
 
「僕は、ただ一緒にいたい。二人と。」
 
驚いたように二人と顔を見合わせる。それから堰を切ったように笑い出した。
 
「サトルらしいや。いいよ、一緒にいてあげる。ずっとずっと一緒。そしたらさ。」
 
ミクはそういいながらバックから何かを取り出す。
 
「二人にプレゼントがあります。ちいさい時に、ホタル見に行ったの覚えてる?あの時、私らは命の大切さ、儚さを知った。さすがにホタル入れるんは可哀想やからお花が入ってます。ずっとこのまんまじゃないけど、いつか枯れるからこそ、大事にしたい。それが命だから。」
 
小さなガラス瓶にドライフラワーが一輪入っている。
 
ガラスの表面から照り返す光は僕らの未来を祝福するようにきらめき、これからくるであろう将来をうつくしく彩っているようだった。僕らは心の底から夢を追っていた。必ず叶うと信じていた。そんな未成熟な道を嘲笑うかのように、ミクはその晩倒れた。
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転換
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「どうすんだよ、サトル。」
 
「わかんないよ。」
 
「わかんないじゃねぇよ。ミク死んじまうよ。いなくなっちまうよ。おれ。やだよ。」
 
あの霧が原因だ。ミクは助からない。唐突に別れはやってくる。
 
「わからない、わからないんだ。」
 
「お前はいつもそうだよな。みんなから一歩引いて、ずっと眺めてるだけ。こんなときくらい、こんなことになってるときくらい、死ぬ気でなんとかしようとしてくれよ。たのむから。あの時みたいに。なぁ、サトル。」
 
「ごめん。」
 
「あの時だってよ。あの山で、わかんないって、言ってた。けど、最後は守ってくれたじゃんか。」
 
今日と同じ、満天の星空が輝きそ、満月が降り注ぐ夜、僕らは蛍を見に行った。あたりはしんと暗くなり、木々はますます生い茂っていった。
 
いつもの場所のはずなのに、腹の内をみせるように森は姿を変えたいた。川のせせらぎの音を頼りに進むが、うっそうと茂る葉っぱは月夜も遮った。
 
暗闇に包まれる。二人の息が、スッと聞こえてくる。焦りが、木の葉の折れる音となって跳ね返ってくる。首筋にはじとっとした汗が流れてきた。
 
「大丈夫だから。」
 
自分に言い聞かせるように言葉を発する。二人は静かに、けれど答えるように服の裾を引っ張った。
 
光の玉がぽーっと横を通過する。そして、また一つ、また一つ、増えていく。その光に導かれるように歩くと、水の跳ねる音が大きくなる。
 
「ホタルだ。」
 
ミクが、ささやいた。気付くと、林のその向こうに光が満ちている。自然と早足になり、茂みのその向こうに出た。
 
満月の夜、満天の星空。辺り一面を優しく、でも力強く光が満ちていた。
 
「ホタルだ!」
 
その声に呼応するように光の玉が縦横無尽に飛び回る。
 
"今日が最後だ、踊れよ命"
 
"どうせもらったこの身体、果てる時まで楽しみたもう"
 
帰りは不思議と道が分かった。僕らは無事家路に着いた。
 
「今回はどうしようもないんだ。分からない。」
 
「もう、いいよ。」
 
僕らは三度目の諦めをつけようとしていた。
 
どうやってテルと別れたかは覚えていない。気付くと家の前にいた。痩せ細った黒猫が目の前を通る。膝をついて手を差し出すと、擦り寄ってきた。
 
「ぼく、どうしたらいいんだろう。」
 
「ぼっちゃま、おかえりなさいませ。」
 
「二婆、三婆、何してるの。」
 
いつのまにか玄関にはばあちゃんの妹たちが立っていた。三姉妹だったばあちゃんの事をぼくらは二婆、三婆と呼ぶ。
 
「時間がありません。」
 
「早く準備をしなければ。」
 
「時は一刻を争います。」
 
「修羅の道になりますぞ。」
 
二人は交互にまくし立てるように話した。
 
「だから何の話だよ。」
 
相手の事を考えず、ただただやるべき事をいう。それがこの二人だ。
 
「説明する暇もありません。」
 
「何を悠長な。」
 
「急いで支度をして下さい。」
 
「満月になる前までに帰らなければ。」
 
「夕焼けと闇夜が入れ替わるその時までに」
 
「すべての準備が出来ていなければ」
 
「だから、説明くれなきゃ分からないよ!」
 
二人の矢継ぎ早の言葉に耐えきれず制止すると、この機を逃すまいとする様に口を揃えていった。
 
「儀式でございます。」
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この世の底
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山ノ神、土ノ神、川ノ神、古来日本には八百万の神々がいらっしゃる。
 
大きなものだけでなく、身の回りのものにも神が宿る。重箱や、かんざし、大事にされれば神事が下りる。
 
だが、同じく疎かにすれば物だって怒る。手が生え、足が生え、角まで生える。こうして
出来上がるのが"鬼"でございます。
 
もともと怨霊が形となったものですから、悪さもするし、いたずらする。
 
人と物、神と鬼、もともと相容れぬ間柄でした。
 
共生しようにも埒があかぬ。ならばいっそ、棲み分けてしまえと出来たのが、地獄でございます。
 
はじめは、ただ棲み分けただけなので、お互いに尊重し合い、行き来も出来ました。地獄絵図などは、案内板でした。
 
だが、いつ頃からか、この世は地獄をあの世とよびだし、忌み嫌うようになっていきました。
 
そして次第に忘れていきました。いつの世も、ないがしろにされればより戻しがきます。
 
イザナミが千の命を奪うように、黄泉の国を忘れるな、地獄を忘れるなと、万の命を奪いにくるのです。
 
「それが大蛇でございます。」
 
三婆はそこまで言い切ると、満足したのか大きく一息ついた。
 
「ちょっとまって、三婆。じゃあ、僕らがその地獄とかを祭らなかったから、あの大蛇が現れて、そして、ミクが」
 
「ミク様の魂は地獄にございます。門を通る直前となります。」
 
「お急ぎなされ。」
 
「お急ぎなされ。」
 
「二婆、三婆、僕をその門へ連れていっておくれ。」
 
はたはたと慌てはためき動いていた二人は、するりと動きを止め、こちらを覗き込む。嘘偽りなき言葉かどうか、目の奥まで鋭く刺すように食い入るように見つめている。
 
永遠かのようにその時間は続き、ひぐらしがこだまする。
 
そのうち二人はゆっくりと瞬きをし、お互いの顔を見合った。
 
「ぼっちゃま、こちらへ。」
 
部屋の縁側から庭へ降りる。玉砂利の上を浮いてるかのように二人の婆は進んでいく。壁沿いに進んでいくと高床式の倉庫が現れる。
 
婆たちは手を伸ばしかんぬきをずらすと、中からかび臭さが漂ってきた。
 
中に入ると器や置物が所狭しと壁いっぱいに並べられている。鎧が左右にずらりと並び、槍が立てかけられている。
 
部屋の中央に天井いっぱいまで大木の板が伸びている。全てを受け入れるように、また全てを拒絶するように、相反する模様を醸し出すその様子に、僕はすがる気持ちで駆け寄った。
 
「これだね」
 
「さようでございます。ねぇさまがいなくなったその時から、あの世とこの世は繋がったままです。
ねぇさまは儀式に失敗なされた。因果応報、世の定めとはいえ、収拾がつかなくなっております。」
 
「ぼっちゃまが、あの世の主と話をつけ、扉を閉めなければなりませぬ。」
「どうすれば、あちらの世界にいけるんだい?」
 
二婆と三婆は深く息を吐き、こちらを向く。
「準備いたしますので、しばし待たれよ。」
 
二人は蔵の奥から白装束を持ち出し、僕に着せた。
 
「この白装束はぼっちゃまの本来の姿を隠してくださいます。然るべき時までお脱ぎなさるな。」
 
棚から玉串を取り出すと定位置につく。何年も当たり前のようにあるように、その動作は自然だった。あの世とこの世。その繋がりはごく当たり前で、ただ忘れられているだけ。然るべき手順を踏めば行き来は容易である。そう訴えているようだった。
 
「今は、あの世とこの世が入れ替わる時、全ての境目が曖昧になっております。核となるものを中心にぐるっとお回りください。そう、階段を降りるように。」
 
言われるがまま大木の板を中心にくるり回る。一歩進むごとにチリチリと炎のほとばしる気がした。生肉の焼ける匂いがただよう。喉が渇く。
 
「元いた場所に戻ると、あちらの世界が拡がっております。」
 
そこに板はなく、大きな伽藍堂が向こうに見える。こちらと違う空気がただよい、ヒリヒリと肌を刺してくる。足を踏み出そうとすると二婆に止められる。
 
「ここからはお履物をお脱ぎください。地面と直に触れ合う。その感覚を忘れてはいけませぬ。然る時がくるまでは、離してはいけません。」
 
心なしか婆たちの喋り方が変わった気がする。あたかも本来あるべき姿に戻ったように感じた。履いてるものを脱ぎ、板の向こう側へ出る。はるか下まで石の階段が続く。熱風を帯びる大気を嘲笑うように、足の裏から伝わる感覚はひんやりとしていた。一つ一つ階段を降りていく音が、かなり遠くまで響いていく。感じられた広さに反して、暗闇が視界を包む。両手いっぱい拡げたくらいが、かろうじて見える範囲だ。
 
「ぼっちゃま、我々はここから先にはいけませぬ。ご達者で。」
「婆たち、ありがとう。必ずミクを連れ帰ってくる。」
 
いつの間にかはるか上の方に婆たちがいた。ぼんやりと光るその様子は、あの世のようだ。
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地獄
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じとじとする。不吉な空気がねっとりと喉元に絡みつく。
なりゆきだった。ミクを救いたいという思いでここまできたが、正直確たる自信もない。
大蛇、地獄、神話。おとぎ話の世界ではないか。全て空想で、全て夢のお話。
そう思いたかった。しかし肌に触れる空気、地面を通して上がってくる冷気。
それら全てが現実であると、意識を引き戻すのだ。
僕はただ三人で幸せに暮らしたかっただけなのだ。
よくきたね。一人かい。ようこそ地獄へ。もうここまできちまったら諦めな。
そんな声が聞こえてくるようだ。
 
「おーい。」
 
どこまでも続く暗闇。どこに向かっているのか。進んでいるのか。自分への問いかけ。
お前は何をしている。おい、お前だよ。
 
「おーいってば。こっち見ろやい。」
 
どこからともなく声が聞こえる。ついに幻聴まで聞こえてくるようだ。
すると突然、暗闇からにょきっと手が伸びてきて腕を掴まれた。ゾッとするまもなくその掴まれたものにそのまま引っ張られる。何やらぶつくさつぶやいては、悪態をつきこちらを見ようともしない。見ようともしない。そうつまりそれは生き物だった。しかも何か喋っている。こどもくらいの背丈でろうか。いや、それにしては小さすぎる。人ではない。それは今掴まれている感触ではっきりとわかる。乾いた、鳥の皮のようにつるっとした表面。時々、カチリと当たる音が長い爪を持っていることを教えてくれる。
 
「全く。やになっちまうよ。初めから終わりまで、ずっと働き詰めだ。休みなんかありゃしねぇ。それもこれもきちんと回らなくなってからだな。昔ならこいつみたいな彷徨い魂はほっておいてよ。勝手に地縛霊にでもなってろやい、って感じだったのに。今じゃこっちに送られてきたら丁寧に送迎付きだ。へいへい、立派な労働力さんですもんな。昔は違ったって?そーさ、違うさ。なんたって、いざなみ様がこられた時にゃ、やっとこの世にも治められる方がきなすった。我々の先祖様一同大喜びで、大祝宴の大盤振る舞い。ところがどっこい、あのいらんことしーの、いざなぎのおかげで。仏に見えたいざなみ様は急変なされ、あ、これが地獄の職場か、と働き詰めの世界ができましたとさ。」
 
甲高い声は鳥声のようにピーチクパーチクさえずっていた。
 
「ねぇ、君。」
「だがよ、大変だ、と思っていられるうちはまだましよ。それでもまだ祭があった。その時にゃ、みんな日々を忘れて、我を忘れて怠け放題。それをよしとされていた。だが、人間どもが変えちまった。労働力が足りなけりゃ、地獄の業火も燃やし続けれねぇ。それなのに転生の魂だけは必要とする。そうは道理が通らねぇってのに。」
「ここがどこかわかるかい。」
「そうそう。ここをどこだと思ってやがる。天下の、いや地下の地獄とはこのことよ。この地獄がなけりゃ、この世もあの世も成立しねぇ。お前さん、いいこというねぇ。」
 
ひた、っと歩みが止まる。ゆっくりと手を離し、くるりとこちらを向く。いつの間にか周りは緩急つく山肌へと変わっていた。ずいぶん下ってきたらしい。麓の方では川が流れ、何艘もの船が行き来している。周りを見渡すと同じように“何か”に手を引かれている人がわらわらと集まっては、船で反対側に渡されていた。
 
「お前、しゃべれるのか。」
「僕はサトル。君は?」
「おいおいおい、ちょっと待ってくれ。お前しゃべってるよね。だが、死者はしゃべらねぇ。そりゃ、お前らがしゃべってちゃ、地獄中がうるさくて仕方がないからな。それにしゃべるってことには個性がいる。そうおいらみたいに。あっとうてき個性だ。それに比べてお前ら死者は色がねぇ。色がねぇってことはしゃべる必要もないよな。それが道理ってものよ。死者ってのは魂の原液。綺麗に洗浄してる時に喋られちゃあ、らちがあかねえ。だろ、お前もそう思うだろ。」
「よく、分からないな。」
「ぬぁ。はっきりしねえやつだな。それじゃ死者と変わりゃしない。お前の考えはなんなんだ。お前はなんでここにいる。お前はなんのための生きている。それを考えろ。それが生者の特権ってものよ。って、ことは死者じゃねぇ。生きてんだな、少なくとも喋ってる。」
「うん、僕はある人を救いにきたんだ。」
「よしよし。」
 
遠くで立ち登る業火があたりをうっすら照らしてくれた。目の前の“何か”がチラリと見える。ぎょろりとした眼球が大きな扇子の両側にボテりとついている。蛙のような筋肉質の両手両足がにょきりと伸び、足の間からは口が飛び出ている。
 
「そしたらな、お前は、敵だ!野郎ども。久しぶりの祭りだ!血祭りにあげろ!」
 
その号令に呼応するように周りの“何か”も集まってきた。いや、襲いかかってきた。よく見ると扇子だけでなく、桶に提灯、傘まである。あぁ、そうだ。色々と頭の中で繋がった。
 
“何かは鬼だ”
 
「絶対に逃すんじゃねぇぞ。八つ裂きだ!この世に生者はいちゃならねぇ。それが道理ってもんよ!」
 
踵を返して、元来た道へ逃げた。山の下に行けばもっとたくさんの鬼がいる。なるべく山の上へと逃げよう。あの扉から戻るんだ。僕には無理だ。到底無理な話だったんだ。ここまできただけ偉いじゃないか。鬼なんかに勝てっこない。ミクを救うことなんて。
 
“それでいいのか?”
 
足が止まる。もうそこまで鬼がきている。怖い。
 
“いいよ、一緒にいてあげる。ずっとずっと一緒。”
 
そうだよな。ミク。僕らはずっと一緒だ。それだけが僕の願いだ。それすら許されないのか。
 
完全に立ち止まり、鬼たちの方を向く。予想外の振る舞いに一瞬怯んだ様子を見せるが、扇子が号令をかけるとまた向かってきた。
 
“この白装束はぼっちゃまの本来の姿を隠してくださいます。然るべき時までお脱ぎなさるな。”
 
着物の襟に手をかける。もう片方の手で帯をほどく。鬼たちの手が届きそうになる。
 
“ミク、今から行くよ”
 
白装束を脱ぎ捨てた。突然、暗雲立ち込める地獄の空を一本の巨大な光の柱が貫いた。その光は、僕を包むように周りを照らす。身体からは幾重にも重なった光の線が、ゆらり、ゆらりと伸びてくる。鬼たちはこちらを見れず、目を覆っている。
 
「我が名は本因坊サトル。こちらの世とあちらの世をつなぐ本因坊家、越境者の末裔である。我が祖母、キミコの後継としてやってきた。鬼たちよ、そなたたちのあるじ、伊邪那美命に謁見奉りたい。通してくれぬか。」
 
 
鬼たちは驚き戸惑い、言葉を発せずにいる。先ほどまで地獄の業火たぎっていた地面は冷たく感じられ、手足は震えていた。背中は冷や汗が滲み、心臓が転げ落ちそうだ。光は落ち着き、暗闇が支配し始める。地面に落ちた枝が軋む音があたりに響き渡る。扇子が何かをしゃべろうと口を開いたときあたりに野太い声が響き渡った。
 
「コガタキよ。そのものを我の下に連れてくるがよい。」
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謁見
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「おいらはまだ鬼じゃねぇ。小鬼だ。使われなくなった物には魂が宿る。その魂に色がつくのよ。そうすっと目ん玉がつく。目ん玉がついたら世の中ってものが見えるだろ。だが、今いる場所だけだと物足りなくなっちまう。そしたら手足がつく。手足が付いたら、いろんなことがわかるようになる。考えるようになる。そしたらよ、一人の頭ん中じゃ収まりが効かねぇ。だから口がついて小鬼になる。そっから他のやつの意見を聞けるように耳まで付いたら、やっと物から鬼になれるのよ。おいらはまだ自分で手一杯だ。聞くことができると、聞いて受け入れられるは大きな違いよ。まだまだ小鬼だな。」
「コガタキは鬼になりたいのかい?」
「鬼、ねぇ。鬼よりなりてぇものはあるよ。」
「なんだい?」
「お前さんには、いえねぇよ。てか言っちまったら閻魔様に舌を抜かれちまう。そしたらまた物に逆戻りだ。」
 
コガタキはよくしゃべる小鬼だ。おかげで地獄について詳しくなった。昔は現世と地獄はひと繋がりだった。人と物、神と鬼、相容れぬものたちが相容れるために棲み分けた。そのうち、地獄は死者の浄化を受け入れるようになった。現世では罪が凝り固まってくる。魂の数には限りがあるので、浄化をしなければ澱がそこに溜まってしまう。地獄の業火と労働を通じて、魂を洗浄する。それが地獄の役割だ。
 
「天国?そんなものありはしないよ。」
 
コガタキは大きな声で身体を震わせながら笑った。
 
「だってよ、どんな聖人でも、一生罪なく暮らせるかい?それを精算もせずにどっか行こうだなんて道理に反してる。だろ?」
 
ある時を境に現世と地獄は袂を分ち始めた。あらゆる不浄を地獄に押し付け、忌み嫌うようになっていった。さらに、その関係を決定的にしたのが雨の岩戸という事件だ。
いざなぎは亡き妻を求めて地獄へやってくる。しかし、変わり果てたいざなみの姿に恐れおののき、心どころか、現世と地獄の通り道を塞いでしまった。
 
「ひでぇ、男だろ。男なら愛した女くらいどんな姿だろうと、どんと受け入れろってもんよ。」
「コガタキは随分人間っぽいことを言うね。」
「そうかい。それは、少し、嬉しいねぇ。」
「意外だな。怒ると思った。」
「人って、人っていいよなぁ。おっと、そうこうするうちに着いたぜ。」
 
目の前には巨大な門が聳え立っている。複雑に装飾された扉は、炎をそのままうつしとったようだった。少しずつであるが、鉤爪のような炎は渦巻状に回転し、炎の魂がそこに宿っているようにも見えた。
 
「さ、ここから入りな。」
「ありがとう、コガタキ。君のおかげで色々地獄について知る事ができた。」
「礼なんていらねぇ。仕事だからよ。けど、おいらにとってお前は初めての生者だ。最初は色のねぇ死者となんも変わんねぇやつだと思った。けどよ、覚悟を決めたお前さんはどの鬼よりも色があった。個性があった。生者ってのはみんなこんなんなのかい?だとしたら、あの世ってのはおもしれぇにちげえねぇ。なんたって個性が溢れてるんだ。ま、無駄話が長くなっちまった。気をつけて行ってきな。主様はよ、おっかねぇ人だけど、心の底は優しい色を持ってんだ。おいらたちみんなのことを想ってくれている。だから、安心しておいらたちは色を育てられるんだ。最近は、少し、様子がおかしいけれどもよ。お前さん、お前さんならなんとかできるかもしれねぇ。な、頼むよ。おいら、ほんとはさ。」
 
コガタキははっと目を見開いて、口を開けたが、言葉にならずに止まってしまった。外見がほんのり人に近くなった気がする。
 
「行ってくるよ。」
 
見上げるほどの鬼が扉のかんぬきを外す。重々しい鉄の音が鳴り響き、数匹がかりで扉は徐々に開いていく。中は大きな広場になっていて、奥には大階段があり、その上の大きな椅子の上に人影が見える。
 
「よく来たな。本因坊の末裔よ。実松は元気か。」
「伊弉冉尊、ご謁見奉り誠に光栄でございます。実松は私より6代前の当主でございまして、とっくの昔に亡くなっております。」
「そうか。人間の命というものは短いものよの。一人が務めたと思うたらいつの間にか変わっておる。それに恥も知らず次々態度を変えおる。おかげで我が地獄は尻拭いに追われておる。」
「誠に申し訳なく存じ上げます。伊弉冉尊から見れば短き我らが命、しかしながら我々にとってはそれぞれが一生分として時を過ごしておりますゆえ、代を重ねれば考え方も変わります。それぞれの世代で最も好ましいとされる方法を取っているつもりではございます。」
「あっはっはっは。」
 
伊弉冉尊の笑い声が当たり一面に響き渡る。
 
「何を抜かすか。其方らは自分らに都合の良いように解釈して、自分たちに都合の悪いものを見ないで済むように覆い隠しているだけではないか。さすがはあの伊弉諾の末裔たちよ。」
「まだ、伊弉諾様のことを恨んでおいでですか。確かに我らが大先祖様でおられる伊弉諾様は にて岩戸を閉じました。しかしなぜ、我らが、その報いを受けねばならないのですか。」
「まだ、わからぬか。愚か者め。」
 
人影はざっと立ち上がり、大階段を飛ぶように駆け降りてくる。周りの石畳は瞬時に沸き立ち、ドロドロと溶け始める。熱気を帯びたその人影は目の前まで来ると、ガバッと覆っていた羽衣を脱ぎ捨てると、そこには全身にウジが湧き、目は溶けてはまた作られ、髪の毛は根本から腐って抜け落ちそうになっている伊弉冉尊の姿が現れた。
 
「貴様らは醜きものに蓋をして、見ぬようにする。隔たりを設けて、見ぬようにする。では、それでそれらの穢れはなくなるものなのか。いな、不浄は不浄として溜まり続け、いつかは限界となる。澱はたまり、吹き出してくる。それが分からぬか。其方がきた理由をあててやろうか。其方の街に現れた我が大蛇、取り除いて欲しいのだろ。だが、そうはいかぬぞ。我が宿命は命を奪うこと。ただ使命を全うしているに過ぎぬ。かの世とこの世の秩序を保つため。必要なことよ。それもこれも、見て見ぬふりをしてきた報いだと思うが良い。」
「伊弉冉尊は、まだ伊弉諾様をしたっていらっしゃるのではありませんか。」
 
伊弉冉尊は驚いたように目を見開いた。解せぬ、という様子で立ち尽くす。
 
「其方、何を言っておる。」
「私は、あの大蛇を消すためにやってきたわけではございません。たった一人、私の大切な一人を救いにきたのです。」
「正気か。たった一人のために大勢の命を犠牲にするというのか。」
「正気でございます。そして伊弉冉尊、貴方様であればお分かりいただけるかと。」
「何をいうか。」
 
伊弉冉尊は片手を振り上げ、憤る。ウジがグツグツと煮立つ地面へと打ち付けられ苦しそうにのたうち回る。
 
「あなた様は律儀に千の命が生まれれば五百の命を、万生まれれば五千の命を奪いにきます。それの伊弉諾様をお慕いするからこそなのではないでしょうか。」
「ええい、失敬な。われはただこの世とあの世の理を守るため、秩序を保つためにやっておるのだ。」
「なぜなら!」
 
そこまで言い切り、サトルは一歩前へ出る。思わぬ行動に伊弉冉尊は後退りした。
 
「それが、唯一あなた様に残された、かの方との絆だからでございます。」
 
地獄の業火が至るところで湧き上がっている。遠くではカンカン、カンカン、と労働を促す鉄の音が鳴り響く。
 
「あなた様ならこの行動、分かってくださると思います。失礼を承知でごめん被ります。」
 
一気に白装束の帯をほどき捨てる。身体から光の筋が彷徨いでる。茫然自失とする伊弉冉尊を元に、周りの鬼たちはどうしたらよいか戸惑っている。くるりと背を向けてもとの扉へと走った。
 
「おぬしもじゃ。所詮おぬしも自分勝手な生き方を通したいだけじゃ。そうはさせるか。お前たち、捕まえな。」
 
急に統率の取れた鬼たちはこちらに向かってくる。伊弉冉尊は絞り出すように、叫び出すように、言葉をはく。
 
「許さぬ。幾千も幾万の時をへても、まだ彼の地はわれを愚弄するか。かの者の子孫までもがわれを蔑ろにするか。許さぬ、許さぬぞ。呪ってやるからな。地の果てまで呪ってやるぞ!」
 
扉につき、両手を押し当てる。初めはびくともしなかった扉は、少し、また少しと光が増すにつれ開いていく。ようやく僅かに身体が通れる隙間ができると、間からコガタキが顔を覗かせる。
 
「若様、こちらでございます!お急ぎなすって。」
「コガタキ、いいのか。」
「いいから、早く、こちらでございます。」
 
 
 
 
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別れ
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コガタキに手を連れられながら地獄の街中を駆け抜けていく。街を過ぎれば過ぎるほど、コガタキの姿は人間に近づくようだ。
 
「若様、まさか、主様にあんなこと言っちまうなんて。命がいくつあっても足りねえよ。そりゃここから逃げられなきゃやっぱ足りなかったって話になっちまうけれどよ。」
「いいのかい。君は伊奘冉様に逆らったことになる。もう鬼にはなれないんじゃないか。」
「若様よ。おいらが以前、鬼よりなりたいものがあるって話、したの覚えてるかい。」
「あぁ。でもそれを言ったら閻魔様に舌を抜かれて、物に逆戻りだって。」
 
前より幾分かマシになった目でふとこちらを見る。
 
「あのよ。おいら、人間になりたいんよ。喜びも悲しみも、愛も憎しみも、そんな個性のある人間になりたい。もちろん、おいらたち物怪は人間にはなれない。だから、化けては人間様の隣にいようとする。鬼ってのはそこらへんの憧れや未練を捨てた物がなるのよ。」
 
コガタキがぎゅっと手を強く握ってくる。
 
「けどよ、おいら、やっぱこの憧れは捨てられなぇ。としたらよ、若様、いやお前さんがあっちの世に戻れたらよ、おいらを横に置いてやってはくれねぇかな。忘れてくれてもいい。ただ、あんたの家にいさせてくれねぇかい?」
「コガタキ。」
「おお、湿っぽいのはなしです。ほれ、みろ、ついた。大関門だ。」
 
巨大な運河を挟んで大勢の人が行進している。老人に若者、女性に男性。ありとあらゆる人たちが列をなしている。列の先には燦然と輝く巨大な門があり、地獄では珍しく黄金に輝いている。人だかりの中に見覚えのある顔立ちの女性がいた。
 
“ミクだ”
 
「あの門を通ったら最後、二度とその人の魂は戻りません。完全に個性を失ってしまいます。特に若様のご友人たちは無理矢理地獄に連れてこられました。地獄の禊を経ることなく、この大関門へ連れてこられたのでしょう。」
「ありがとう、コガタキ。君、」
 
みるみるとコガタキの腕や脚が透明になっていく。さっきまで力強く握っていた手もすでにだらんと下に垂れ下がっている。
 
「おいらはここまでです。主様に逆らうことは鬼には許されておりません。それにおいらは人間になりたいとまで言っちまった。消えるのは仕方のないことです。ここから先に鬼はおりません。必ずミク様をお救いください。」
「あぁ、必ず救うよ。」
 
コガタキがどんどん小さくなりセンスの形に戻りつつある。
 
「よければ、あっちの戻った時に、おいらのこと使ってくだせぇ。暑い夏なんて重宝するもんですぜ。おすすめは氷越しに仰ぐことです。まるで冬でもきたのかと思うほどです。秋は少し使いにくですが、まぁ、飾っていて悪いもんでもありやしません。冬は使わない方が良いかと。あ、鍋に火をかける時に扇ぐためには使えるかもしれませんなぁ。それに春は。」
「コガタキ、わかった。お前を年中使うから。ありがとう。一緒にあっちに帰ろう。」
 
コガタキは消えそうになった眼から涙を流し始める。
 
「おいらどうなっちまうのかな。消えちまったあとはどうなっちまうんだろう。個性を持っちまった物は物怪になり、鬼になる。けどよ、個性だけ持って、それで消えちまったらどうなるんだい。サトル、おいら怖いんだ。これが感情って物なのかい。」
「あぁ、怖いと思うから安心して、憎いと思うから愛があるんだ。それが人間だ。」
 
ほとんど物に戻りつつあるコガタキを手で支える。
 
「そっかぁ。これが人間ってやつなのかな。なんだか、この扇子の継ぎ目のところがさ、あったかいんだ。こんな気持ち初めてだなぁ。これが役に立つってことなのかな。サトル、ありがとよ。」
「こっちこそありがとう。」
 
地面には、ただ、扇子が落ちていた。
 
 
 
 
 
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再会
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運河を渡り、麓から頂上へ向けて上り始める。コガタキが消え去った後、サトルは深いため息をつきながら、大関門の方へ向かった。
彼がそこで見たものは、地獄の中でも群を抜いた騒ぎだった。
門の外部には、何千人もの人間たちが押し込められていた。彼らは悲鳴をあげ、逃がしてくれと必死になって叫んでいた。門の前には数多くの鬼たちが跋扈していたが、彼らは人々の懇願に耳を傾けようとはしなかった。
 
「ミク!」

サトルはミクの手をとり、門の前に立った。
 
「サトル、なんでここに!」
 
「あなたたちは何をしているんだ。どうしてこんなことをする必要があるんだ。」
サトルの問いに、呼応するようにうめく声が聞こえた。
 
「鬼は、人間にとって最も身近な存在だったはずだ。私たちはお互いに協力し、共存してきたのに。どうしてこんなことが起きているんだ。」
 
鬼たちに問いかけながら、ミクの手を引き、人々を解放するよう求めた。しかし、鬼たちは何も答えず、依然として人々を門の向こう側へ進めせようとする。
 
サトルは腹を立て、力ずくでやめさせようと試みた。しかし、鬼たちはやめることをしなかった。
 
「どうやっても聞かないと言うのか。だが、諦めるつもりはない。私は、人々を解放し、地獄を正すために戦わなければならない。」
 
サトルは力を込めて叫んだ。
 
「私は、人と鬼の共存を取り戻すためにやってきた。我が名は本因坊サトル。こちらの世とあちらの世をつなぐ本因坊家、越境者の末裔である。」
その叫び声に、どよめきの声が上がった。人々は一斉に抗議し、自らを逃すよう求めた。
鬼たちは迷い始め、一部の者たちはふれふすものもいた。
 
しかし、まだまだ多くの鬼たちは人々を解放するつもりはなかった。サトルは彼らに向かって言葉を投げかけた。
 
「鬼たちよ、何故こうなってしまったのか。かつて我々は平和に共存してきたはずだ。何が原因でこんなことが起きたのか、教えてくれ。」
 
すると、門から一人の老鬼が現れた。彼はサトルに向かって言葉を発した。

「人間どもが、我々鬼たちを利用している。我々はこの地獄の管理者としてオオクニヌシ様に仕え、人間たちの魂を運んでいるのだ。だが、人間どもは我々を見下し、蔑ろにしている。そして。こともあろうにこの世とあの世を分け隔て、忌み嫌い、関係を切ってきたのはそちらではないか。それをよくもぬけぬけと。このものたちは、世の理を正常に戻すための生贄じゃ。」
 
そして間を置いて老鬼はサトルをぎろりとみる。
 
「お前も同じ穴のむじなじゃ。その隣におる小娘はお主の想い人じゃろ。お主は共存など求めておらん。ただ、その小娘を取り返しに来た。世界のことなどつゆにも気にしておらん。」
 
「その通りじゃ。老鬼よ。」
 
地に響くような声があたりに鳴り響く。鬼たちも人間の魂も響めき恐れている。
 
「そのものにとって、この世も、あの世も関係ない。ただ、一人のために世界を見捨てようと言うのだ。そんなことが通じるわけなかろう。」
 
「これは、伊奘冉様。」
 
思わずミクを見ると、彼女もまた驚きの表情を浮かべていた。サトルは深呼吸をし、老鬼に向かって言った。
 
「この世とあの世の理を正すために、私が存在するのは事実でございます。しかし、なぜそもそも理はねじれてしまったのか。なぜ現世と地獄は分断されてしまったのか。この、目の前にある繋がりを、大事にしなかったからではないのか。たった一人を救えずに、何が変えられると言うのか。」
 
「だまれ、小僧。百年もいきぬ若造に何がわかると言うのか。何百年と我々は忌み嫌われ、押し付けられ、ただ魂を浄化し、戻す。その苦しみがわかるか。怨念を持って、身体を得て、知性をもち、ただ忌避される役割を与えられる気持ちが分かるのか。」
 
老鬼の言葉にサトルはきびとして答える。
 
「だから、変えようと言うのだ。私はミクを救い、そして地獄とあの世をつなぐ。」
 
言葉の勢いそのまま、羽織りものを脱ぎ捨てる。再び当たりは光に包まれ、曇天とした空からは光り輝く筋が伸びて、サトルとミクを照らし始める。あたりに光の斑点が舞い始め、地鳴りがおきるとサトルの身体が浮き始める。
 
「すまない。私には時間がなくなってしまった。必ず舞い戻る。必ず。」
 
「行かせると、思うか!」
 
背筋が悶えるような声とともに伊奘冉の身体がだくだくとして色が溢れ出してくる。怨念の塊と化した伊弉冉の身体はあたりを覆い始める。
 
「伊奘冉様、おやめください。私どもも飲み込めれてしまいます。二度と、魂を持つことができなくなります。」
 
伊奘冉はその声を無視して、サトルたちの元へと手を伸ばす。その手はミクの脚を掴む。
 
「ミク!」
 
サトルはミクが落ちてしまわないように強く身体を抱き抱える。
 
「大丈夫だよ。ミク、もうすぐ地上に戻れるから。」
 
「サトル、ありがとう。ずっと、怖かった。気付いたら、焼け野原の真ん中にいて。でもみんなで励まし合ってきたんだよ。」
 
「そっか。もう、安心していいよ。」
 
「サトル、これを持っていて欲しいの。」
 
ミクは服の袖から取り出したのは、小さなガラス瓶に入ったドライフラワーだった。
 
「ミク、これは?」
 
「これをさ、私だと思って持ってて欲しいの。だから、ね。」
 
「どう言う意味だよ。」
 
「私、一人ではいけない。みんなと一緒にいないといけない。」
 
地面がどんどん遠のいていく。もうすぐ天を抜ける。
 
「サトル、戻ってきてくれるんだよね。みんなで待ってるよ。私も、この世界のことはよくわかんないんだけど、あなたの使命を全うしてください。」
 
ミクの花いっぱいに笑顔は涙に濡れていた。
 
「なんで。」
 
「テルに、よろしくね。」
 
次の瞬間、ミクはサトルの手から抜け落ちて地面に落ちていく。まもなく周りは深い霧に囲まれ何も見えなくなった。しばらくして気がつくと、そこは元いた倉だった。
 
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ケジメ
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「ぼっちゃま、おかえりなさいませ。ミク様は?」
 
心配そうに二婆と三婆が覗き込む。とっくに日は上り、もうすぐ夕陽になる頃だ。
 
「頼む、支度してくれ。この出来事を、終わらせるんだ。」
 
一瞬不思議な顔をした二人だが、すぐさま察したように身支度を整えてくれた。
 
「あの大蛇を倒しにいく。」
 
テルを家に呼んだ。

「お前、ミクに会ったのか。元気だったか。」
 
「あの世だよ。元気も何もないよ。」
 
「確かにな。」
 
「けど」
 
「けど?」
 
「花のような笑顔だったよ。」
 
「なんだよ、それ。」
 
二人は古びた棚から取り出した、今にも崩れそうな巻物を広げている。そこには本因坊家が代々受け継いできた儀式や見取り図が書かれている。そして、その一説には大蛇が描かれている。
 
「ここだ。」

二人が指差すと、テルは巻物を真剣な表情で見つめた。
 
「これが、大蛇の倒し方。」
 
「そうだ。でも、厳密に言うと倒し方じゃない。お帰りいただくための儀式だ。」

テルは巻物を丁寧に畳み、自分の道着に仕舞った。
 
「行こう。」

テルが一歩、外に出ようとすると、婆たちが慌ててついてきた。
 
「私たちも一緒に行きます。大蛇はあまりに危険でございます。」
 
「二婆、三婆、家に留まってくれ。この家の跡継ぎは、私だ。後継として、一婆の分も儀式をやり遂げなければならない。」
 
二人はしぶしぶ、家に残ることを決めた。
 
「で、どうするんだ?」
 
「一婆がよく聞かせてくれた。月満ちる時、夕焼けと闇夜が入れ替わるその時間、あちらとこちらの世界が繋がる。けどどこでも繋がるわけではない。神聖な場所でのみこの世の理を超える事ができる。」
 
「神聖な場所って、ここか?」
 
「そう。ここにあの大蛇を連れてくる。」
 
「おいおい、正気かよ。」
 
「だから、テルの力がいるんだ。バイク、得意だろ。」
 
「命がいくつあっても足りないな。」
 
「あぁ、だが。命を救うには軽すぎる代償だよ。」
 
テルは驚いたようにこちらを見るが、すぐにニンマリ笑う。
 
「それでこそ、サトルだ。」
 
儀式は夕日が沈む時にしか行えない。もう一刻もないだろう。本来はオオクニヌシ様の使いである大蛇をあの世にお返しする儀式である。
 
「でも、今回は違う。儀式を途中でやめ、この世とあの世の境であの大蛇をぶった斬る。」
 
「そうすれば、ミクは救われる?」
 
「きっと、そうなる。」
 
「じゃあ、二人で、やるしかないな。」
 
日が沈み始め、あたりは橙色に包まれる。二人の目先には大蛇が現れる。
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儀式
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二人は大蛇の前に立ち、儀式を始める。近づくものを全て破壊する大蛇はそのものを破壊し尽くすまでどこまでも追いかけてくる。二人はバイクに跨る。道順はすでに確認済みだ。アクセルを全開にし、大蛇に近づく。鎮座する大蛇はこちらを見向きもしない。だが、テリトリーに入って瞬間、牙をあらわにし、こちらに突っ込んでくる。街中の大通りを抜け、土手に出る。土はめくれてしまうが、建物が壊れるよりかはマシだろう。
 
「その土手を降りて曲がればうちの神社だ。」

「最後のひとふんばり、頑張りますか。」
 
ざっと坂を駆け降り、小道に入る。後ろからは壁を次々と破壊しながら大蛇が追いかけてくる。境内を抜け鳥居の前に立つ。サトルは巻物に書かれた儀式を読み上げる。しばらくして、夕焼けが消え、闇夜が訪れた。空気が重くなった。大蛇は巨大な体躯と鋭い牙、猛烈な勢いで二人に襲いかかってきた。
 
「夕焼けと闇夜が入れ替わる時、我、核なるものを中心に降りたもう。」
 
境内の真ん中には神殿が立つ。その周りをぐるりと回る。
 
「この世とあの世の境が曖昧になりし時、二つの世は繋がりたまう。」
 
周りきり、鳥居の方を向くと、あちら側には地獄の業火が煮えたぎる。
 
「テル、ここで充分だ。降ろしてくれ。」
「サトル、頼んだ。」
 
鳥居の前にたち、大蛇を迎え入れる。
 
「偉大なるオオクニヌシ様、あなたの僕をお返しもうします。私は本因坊家、次期当主、本因坊サトルでございます。あの大蛇はこの世とこの世の理を乱すもの。越境者として仲裁させていただきます。」
 
その時ふっと、懐から扇子が転げ落ちた。
 
“あのよ。おいら、人間になりたいんよ。喜びも悲しみも、愛も憎しみも、そんな個性のある人間になりたい。もちろん、おいらたち物怪は人間にはなれない。だから、化けては人間様の隣にいようとする。鬼ってのはそこらへんの憧れや未練を捨てた物がなるのよ。”
 
違う。ただ分け隔てるだけではいけない。何も変わらないのだ。ここでこの大蛇を消したとて、何も変わらない。

「テル、急いでそこをどけ!食われるぞ!」
サトルが叫ぶ。

「いや、もう少し待ってくれ。」
サトルは腕を振り上げ、巻物に書かれた言葉を唱えた。
 
「境目はなくなり、行き来することは容易になった。しかし、我はそなたを受け入れよう!」
大蛇は突然痛みに悶絶し、サトルが読み上げる言葉に従って、その場で動けなくなった。あたりに悲鳴とも地鳴りとも取れる音が響き渡る。
 
サトルは大蛇の体を包むようにして祈りを捧げ、その力を制御した。大蛇は慢慢と静まりかえり、呼びかけに応じて身を起こした。
はっと何かに気づくと、
「すみません、オオクニヌシ様。」
とサトルは声をかけた。大蛇は静かに頭を傾げた。
”私はただ、この地に住む者たちと共に、共存していたかったのです。でも、私の存在が彼らを脅かしてしまうことに気づきました。あなたの力で、私は自分の役目を思い出すができました。怒りに我を忘れ、目的も、自分が何ものであるかも忘れてしまっていた。”
 
「オオクニヌシ様、自らが出てこられるほど、この世の理は乱れてしまっていたのですね。我ら本因坊家の恥でございます。これからはこの世とあの世、お互いを見ながら過ごしてまいります。なので、ひと時の猶予を私たちにお与えいただけないでしょうか。」
 
”我らは共存してこそ生きながらえることができる。そのことを忘れないでいただきたい。”
 
「ありがたきお言葉。」
 
”だが、人間の子よ。伊奘冉より伝え聞いた。ミクという娘だが。”
 
「はい、わかっております。」
 
”そうか。ならばもう何ももうすまい。”
 
そういうと大蛇の姿をしたオオクニヌシの身体は光の玉となって消えていった。いつの間にか闇夜は消え失せ、夕焼けが戻っている。テルが近づいてきた。
 
「終わったのか。」
 
「あぁ。これで終わりだ。」
 
「ミク、は?」
 
「ごめん。」
 
「そうか。」
 
一週間後、ミクの葬儀が執り行われた。亡骸の傍には三つの小瓶が置かれている。街は封鎖を解かれ、人々が怪奇のあった場所としておおく訪れた。街に住むものはマスクを外し、久しぶりに味わい、真っ青な空の元で吸う空気を味わった。全てが終わり、全てが始まる。何事もなかったように続く日常。ただ、一つの歴史となり、世の中は続いていくのだ。だが、教訓として残る言葉は、人々の記憶の奥底で鎮座する。誰が違い、誰が見捨てられているのか。どこが切り離されて、忘れられているのか。時に、“物”というものは記憶も感情も取り込み、“物怪”と化す。だが、恐るなかれ。ただ、彼らは人間に憧れているだけなのだから。
 
「お前、今時何を使ってるんだよ。文明の利器を使え。平安時代か。」
 
「いや、僕はいいんだ。」
 
その手には小汚い扇子が握られていた。今日も、ホタルの光が我生きんと、輝いている。
[完]
 
 
 
 
 
 
 

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