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鱒と僕

 数年前、"鱒掴みで捕まえた鱒をでかい浴槽で飼う"という馬鹿なプロジェクトを本気で実行した奴らがいた。もちろんその中に僕も含まれていて、なんなら中心メンバーの一人だった。

 浴槽に水を張って、温度を調整する。ここまでは順調だった。主役の登場と言わんばかりに鱒を浴槽に流し込むも、数分も経たないうちに鱒は動かなくなった。僕たちは"住環境の変化"という懸念を一つも考えていなかったのである。水は塩素を含んだ水道水で、大きい浴槽と言っても川と比べたらちっぽけなただの四角い箱。これが魚にとってどれだけのストレスだったのか。それらを全く理解していなかったのである。

 人間で考えてみると分かりやすいかもしれない。冷房の効いた部屋でのんびりしている最中に、いきなり捉えられ、エベレストの山頂に置き去りにされるようなものだ。想像するだけで背筋が凍る思いだ。

 それだけ人間にとっても、住環境の変化というのは大きな問題なのである。これはひとえに温度や大気だけを指すのではなく、人間関係やその土地柄をも含んでいる。むしろ、後者のほうが問題における大部分を占めているだろう。

 例えば、東京で生まれ育った生粋の江戸っ子が、コンビニまで車で30分もかかる田舎町へ突然左遷されたらどうだろう。自ら望んでの移動で無い限りは絶望しかねない。村八分という言葉があるように、独特の村社会に適応できるかも分からず途方に暮れるだろう。これがどれだけのストレスになるのか想像に難くない。

 僕にとって今生きている環境が、あのときの鱒を彷彿とさせている。自分が蒔いた種が原因というのは重々理解しているが、それでも数多の選択肢から今の生活を取ったことを後悔している。

 これが祟りなのかと少しばかり考えることもある。幾ばくかの閉塞感が僕の周りを包んでいるこの時間が憂鬱で退屈だ。心身が万全な状態なら吹き飛ばしていただろう。その元気でさえも、魚の餌になって食い荒らされている現状に僕は頭を抱えている。

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