【過去記事】落ち葉#2 「ある夜の喫茶店で」

「落ち葉」シリーズは、自分の書いた短い文章、言葉を吐き出すシリーズです。言いたいことが口から出ないのは想いで詰まっているから。想いを吐き出すと、言いたいことが自然と出てくるはず。だから、人に見せられる文章か否かは考えず、どんどん書いていこうというシリーズです。多くの落ち葉は、他の生き物の栄養になります。たまに素敵だと思う落ち葉が見つかります。読者のみなさんの腐葉土に、自分自身の腐葉土になればと思います。

私は座っている。木製の椅子。脚は4本で手すりはない。私の前にはカウンターがある。L字型。Lの短い辺に2席、角に1席、長い辺に7席ある。各席には黒い紬のランチョマットが敷かれている。陶芸の器が置かれている。足のような形、粘土をなぐったような形、川で角を落とした石のような形。十人十色。それが灰皿だと教えてくれたのは目の前のマスター。白髪で優しそうな瞳。私はナポリタンとコーヒーを注文した。慣れた手つきでコーヒーを淹れるマスター。現れたのは湯気と香り立つ黒柿色の飲物。指が熱い。唇ですする。ほろ苦い。すっきりした後味。「今つくるからね」と言い残し、右手のスイングドアに消える。私は、マスターが営んできた空間を眺めた。この空間には私とマスターの二人がいる。正面はカウンターをはさんで作業台。その上には戸のついた棚。多様なグラスが収納されている。多様な器が置かれている。女性の写真が飾られている。マスターの大切な人だろうか。笑っている。私は後ろをふりかえる。机と椅子が並ぶ。家族連れが6組はくつろげるだろう。レンガの壁面には、上半円・下四角を合わせた形の洋風窓が3つある。その窓からは、素敵な器がのぞいている。私は上を見上げる。花が咲いたようなランプが灯っている。電球色がこの空間を照らす。温かく照らす。マスターが戻ってきた。「はい、ゆっくり食べて」粉チーズがかかったナポリタン。太麺だ。「いただきます」ひんやりするフォークを回し、毛糸のように巻く。口に運ぶまでに麺がほどける。美味しい。うどんのような太麺のもっちりとした食感。ベーコン、ピーマン、タマネギ、パセリが舌で躍る。トマトの酸味と旨味が口にひろがる。おいしい。「どうですか」「美味しいです」「ライスいる」「いただきたいです」微笑みながら、スイングドアの向こうへ。心が穏やかだ。この雰囲気、好きだ。ライスを片手にマスターが現れる。「これはサービス」「ありがとうございます」平く盛られたライス。ぬるいフォークでいただく。美味い。あったかい。かむとあまい。うまい。「今日はどうして来てくれたの」「大切な人が飲みに行ってて、自分は一人になったので、この店に寄ってみました」「なるほど、彼女」「はい、大切な人です」「いいね、君は学生」「はい、大学生です」「ほう、将来は」エンジニア、と答えそうになってやめた。私は本当にエンジニアになりたいのか。そもそも、エンジニアという職業を理解してもらえるのか。「研究者です」と答えた。「ほー、研究者か。何の研究をするの」うーん。数学です、と言いかけてやめた。私は本当に数学者になれるのだろうか。「意思決定論です、経済学の研究者です」数学の次に思いついたことを口で言っていた。「ふーん、そうか。やると決めたら、その一つをやりなさい。私は、お医者さんになりたかった。でも、勉強ができなくて挫折した。その後、いろんな仕事をしたけど。やっぱり一つのことを続けるのが一番。この店も始めて50年以上経つんだよ」ああ、なぜ私は素直に数学者と言えなかったのだろうか。50年か。「あとは努力。一つのことをやり続けるには努力がいる。いろんな大変なことがあるけど、努力すれば大丈夫」努力か。私は最近努力をしているだろうか。幸せな日々は送っている。しかし、何か欠けている。それは目標へ向かうための努力なのかもしれない。皿が空になる。ぬるいコーヒーを飲み干す。後味はすっきりだ。「ごちそうさまでした。おいしかったです」「はいよー、また来てね。次は彼女と一緒に」「はい、また来ます」「がんばれよ」私は温かい眼差しを背に店を出た。


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