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考えるということ。

わたしはね、今までに失敗もいっぱいしてきたし、恥ずかしいこともいっぱいあって。
無神経に人を否定して傷つけて、それに気がついてないこともたくさんあったし、それでもそんな自分でも最近やっぱりこれだけはそうだよなぁと思うのは、何においても、答えなんてものはないってことと、だから考え続けること、それこそがある意味正解の姿だよなぁと思う。

解はないが、方程式だけはあって、それが"考え続ける"ということである、というか。

数学の問題でも、方程式が答えになる問題とかあったでしょ。
そんな感じで。


高校の頃から、ひとつのあることがきっかけで、人生とは?人間とは?わたしとは?幸せとは?どう生きるべきなのか?と、ずっと考えてきた。

考えなければ、乗り越えられない何かがそこにあったんだろうと思う。
嫌なことに蓋をするという術を持っていたら、できなかったことだと思う。
そこからずっと同じことを考え続けて、その時々でたまにこれかな?という答えに出会えたり、出会えなかったり。

何かしらの答えを、手に掴んだとしても、掴んだ瞬間から、世界も自分も少しずつぐにゃんと変わっていくような人生で、それらの答え的なものは、その時々の、目の前の扉を開く鍵にしかならず、それらはいつも答えではなかった。
今もそう。

いまだに過去にも今にもわからないことばかり。
どうしたらよかったのか、これからどう生きればよいのか、日々の中で考えながら生きている。

自分を正しいと思った瞬間に、残念ながら人は一番間違っていて、それを人にわからせようなんてことは地獄以下で論外。
他人を指摘することがいかに責任転嫁的で、自分に甘く、他人に甘えているか、そんなことさえもわからない日々もあった。

しかし自分が正しいと思った時こそ実は一番愚かであり、愚かであるということは一番下から物を見ることができる、そんな、自分を見直すチャンスであって。
自らを正しいと思った時に、果たして本当にそうか?と、自分に問うことができる自分になれたのが、ほんとうにここ最近で。
正しいと思ったときに、ほんとうにそうか?と問うことができるのは、過去に、わたしが、自分は正しいという失敗を経験して、そのときにちゃんと反省してきたからなんだろうなと思う。

他人を悪いと思うこともそう。
果たして本当にそうなのか?その人は悪い人なのか?いろんな全てを丁寧に思い出しながら、自分に聞く。
何かあるたびに、いつも、自分に聞き続けてきた。
他人を責めたくなるときには、必ず自分に問う。
向井秀徳が何度も自問自答と歌うのは、何度繰り返しても、ほんとうにそれが大事なことだからだと彼が思うからだと思う。


わたしの人生は、誰からも侵されていない自分独自の哲学だ。
そしてそれはめっちゃ楽しい。


嫌なことも辛いことも、考える奥深い楽しさで乗り越えてきた。
これは間違っていないと思っている。

でもだからって自分を強いと思うのも間違いで、人間は全てみんなもれなく同じに弱いもので、たまに強がったりする自分や、強がらずにいられない自分や、背伸びする自分、認められたい自分、そんな自分と同じような他人を、許すのではなく認めながら、同時に自分も認めながら、生きていく。

例えばイチローは天才だとは思うけど、彼だってどの人間とも同じように、考え、乗り越え、行動し、結果を見てまた考え、というように生きてきたという点においては、同じで、生きる世界は違えども、別々の場所でしっかり生きているのだから。

そして、自分が考えている以上に、周りの人たちはもっと違う視点や、違う目の色を持って、わたしとは違うことを考えているんだろうなぁと思う。
同じものを見ているけれども、違うメガネをかけているし、違う方程式と、違う感受性で紐解くわけだから、そういう意味で同じものを見ることはできない。

人間とは?人生とは?わたしとは?幸せとは?
そんなことをずっと考え続けている人に出会えたら、すぐに友達になれるのになぁと思うし、そういう人とならいっぱい話したい。
楽しめるから。


わたしもそうだが、実はこんなこと考えてますなんて誰も初対面では言わないしわたしのいる世界では初対面からもう会わないみたいな関わり方の仕事なので、まあわからない。
こないだ初対面でブルーハーツ詞の意味について熱く語ってしまった時は、また語る相手を間違えたようでまた反省した。
誰に打てばヒットするのかわからない。


話は戻って、

そんな、いろんな悩みにおいて、自分なりのそのときの答えを自分の感覚で発言してきたので、キャッキャしてこなかった。
周りに合わせるのは苦じゃないのでそれなりに合わせてはきたけれど、でも、もし、キャッキャできていたら、と少し思ったりする日もあるけれど、考えることを放棄しなくてよかったと思う。

幸せとは?お金とは?人間とは?とか、嫉妬や憎しみ、人を好きになること、について、その時その時答えがあるから、いつでもだいたい迷わずに芯をもって、周りにどう見られようと、自分で納得して生きて来れている。
周りに合わせることであっても自分の考えに基づいての行動なので、あまり同調圧力とかも感じなかった。


ただ、どんな日にもどんな時にもベースにはそういう思考があって、それが疲れるということは全然ないのだけれど、それを分かり合える人がいないということははっきりとわかる。
いないというか、あまりいないからあまり出会えない、という感じだろうか。
人と共有する、ということへの価値観が最近著しく低いので、それもあるかも。
最近は孤独でいられることが少し幸せだ。
ただ、ひとりを選択すると、優しい周りの人に気を遣わせることもあるので、ほどほどにしている。
なんでもほとほどがいい、というのも、ほんとうだから。

ただ、人と会って騒いでばかりだったり、休みのたびにだれかとランチに行ったりするそういう経験も大事だけど、一人でじっくり考え抜くための、ほんとうに誰からも侵害されない自分だけの時間、は、今の時代は、SNSもあるおかげで、本当に作らないとないだろうから、それをあえてちゃんと作って、自分の感情や存在そのものと向き合って、それらについて熟考することは、こんな世の中だからこそ大事だと思う。

拝金主義、勝利主義、自己責任論、完璧主義、こんな世界に生まれ落ちた、とは思うが、これらに対して、あまり何も考えないとしたら、せっかく、これらについて考えてみよーよ!ほらほら!という文明からの課題なのにもったいないなと思う。
そのままの流れに乗るのもいいと思うけど、自分の答えを楽しく探す旅は楽しいよ、と思う。

若い時は、同じように自分の感覚で考えて自分の言葉を持つ人にいっぱい出会えたなぁと思うけど、結婚して子どもが産まれてからは、環境の変化に合わせる必要ももちろんあり、そういう人との時間はなくなってしまった。


でも、最近は仕事もフリーになって、いろんな人に出会えるし、またそんな人に出会えたらいいなぁという思いもあり、誰も見てない昔からのブログに書くのをやめてこっちに来た、というのもある。


もうずっといろんな、【ザ・永遠のテーマ】について考えてきたけど、全然足りないと思う。
全然足りないし言葉にする能力もほんとうに低い。
もっといろんなテーマがあるし、自分とは何か?については考えても何もわからない。
自分のことだけはほんとうにわからないままだ。
自分だけはどうしても見えないが、自分が見えないということも人間の大切な要素なのかもしれない、とも少し思う。


動物、というか、他の哺乳類たちが、考えているかいないかはわからない。
言葉を持たないだけなのか、人間には聞こえない伝わらない言語や伝え方なだけなのか、わからない。
ほんとうは考えていて、人間にわからないようになっているだけかもしれないが、人間は自分たちにしか思考はないと思っているみたいだ。
しかしそれこそ思考がないのだ。
生物学的な意味でこんな生き物だけれども、もしかしたら、こうかもしれない、というところに、次の解があるかもしれないのに、自分の都合で思考していることにさえ気がつかない、とここまでいうとただの性格の悪い上から目線の捻くれ者になるので、やめておくが、だからこそわたしは性善説を、手放さない。
哺乳類というのは例えであって、対人間の話であることは念のため言っておく。

人間は愚かである、についても、ほんとうにそうか?
あの人はバカだ、ほんとうにそうか?
あの人は人を騙す悪い人だ、嘘つきだ、なにか理由があって、それは単純なことかもしれないし深いことかもしれないしわからない、わからないのが答えだ、だから"悪い人"というのは間違いだ、けれども、いい人と決めるのもおかしな話で、わからないままでその人を認められて、好きになって、好きが揺るがないことが好きってことなんだろうと思う。
これは感覚の話なので、ほんとうに人を認めれる人でしかわからない話だとは思うが。


何か嫌なことをされて嫌になるのだとしたら、それは自分に好きという気持ちはなく、自分にとって都合が良かった相手だった、ということにしかならない。
でもまたあとから認められるようになったり、ならなかったり、そうやって揺らいでゆく先がわからないものでもあるので、本当は何も決まらない。

何かを悪いというのはね、いうだけなら簡単なんだよ。
それについて熟考する気がありません、という、わたしには考える力がありません、向き合う力もありません、ということになってしまうので、何かをいいも、悪いも言わず、わからないけど考え続けます、という姿勢が正しいんじゃないかと思うよ。
自分のこともね。

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