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ただの日記。

私の音楽のルーツはジュディマリ。
ゆきに全てを持っていかれてた高校生だった。

たくやのギターも、おんちゃんのベースもこうたさんのドラムも、それぞれいきいきしてて全て大好きだった。
2007年の段階でとうに解散しており、ライブで見たくても見られない、わたしにとって幻であり、ほぼ伝説で、そういうところも含んで大好きだった。

そんな高校時代だったので今も当然ゆきのファン。
フォローしているアカウントもゆきファン系も少しあり。
そんで、偶然タイムラインでみかけてしまったたくやのコメントにがっくりきた。
たくやは以前YouTubeでもなんか言ってたし、ひとはなぜ、大好きだった人に対して、そうなるのだろうと考えたりした。

人が攻撃的になるときは、何かしらの理由がしっかりとあるのだろうとは思うけれども、冷静にそう思うとしても、見る人も受ける人も、人、なので、攻撃的な人とは関わりたくなくなるのが当然だよなぁと思う。

ワンマンのバンドではなく、すごいメンバーが集まるバンドはこうなりがちだよなぁと思ったりもして、だからまあ、いいのかな、と思いながら、絶対自分に嘘ついて復活したりしないでくれよな、とわたしは思う。

大好きだけど、復活しないでね、と思った今朝。


好かれていた人からの、後々の攻撃的な態度というものとの、理不尽な関わりは、今まで生きてきた中でもわたしにも少しあって、嫌だなっていう記憶ではあるんだけど、わたしの何かが彼らのコンプレックスのどこかを無意識に強く刺激してしまうんだろうな、とは思う。
けれども、わたしが彼らと同じ立場になることももちろんあった。
ただ、彼らはそういう時の感情の対処法を、いまだに知らないんだろう。
対処法をしっかり知るのはかなりきつい。
自分の感情と向き合う辛さよりも、人を攻撃する方が断然楽なんだけど、あとあとしんどくなるのは後者なんだよね。
今からでも向き合えよ、と思いつつ、まあ頑張ってくれ、という感じ。

ただ、そういう攻撃的なひとを攻略しようと、そういう人のことを頑張って理解しようとしたり、どこか尊敬できるところを探したり、しっかりと興味をもって接してみたことがあったけど、自分は成長するけど他人は変わらないし、成長のわりに傷つくことの方が大きかったので、結局後悔している。
時間の無駄だったかもしれない、と思う相手もいる。

誰とでも努力すれば分かり合える、なんてことはないんだと。
自分も人も、変わらないんだ、と。
何度も何度も、それでも信じようと思ってきたけれど、最近やめようと思った。
傷ついたけど、それは、もうやめな、という誰かからのメッセージだったんだろうと思っている。


たくやをみてて、なんかそんなことを思い出してさらに考えて、今日一日少しブルーでいたら、なんと息子の通っている空手教室が、いきなり閉まることになってしまって、更にどかーんときている。
ただ、病気になって、教室をできなくなってしまった先生が一番悔しがっているので、悔しがってくれる先生でよかった、ここで通えてよかったな、と思っている。


まだ35年くらいだけど、人生の大きな波があって、孤独の波を、また感じている。
人と関わることとはなにか?
人と関わって生まれる何かはとても大切なことだということはしっかりわかっているんだけど、自分の中にある甘え、隠し切れない子どもの自分、自分の無意識から滲み出る攻撃性、思い込みの激しさ、いらないくだらないフィルター、そういうものと今一度向き合わなければならない、と今年の頭から思っている。

人と会って話すことは楽しいけど、人が目の前にいると思考はとまる。
当たり前に気を使うからだ。
特に女は、人との関わりを本質的には行わない。
女の人間関係は良くも悪くもそのときそのとき生きていくための交流であって、流れゆくものでもあるので、ないときがあっても構わない。
それでも、離れていても心が通じ合っている感じがいつもある友達という存在はいるので、安心してひとりで熟考する時を長く使ってもなにも問題はない。

久しぶりに会ってもなにも変わらない友達も、こんな子どもみたいなわたしにも、いてくれることに、本当に感謝している。


そしてね、昨日かな、めっちゃ暑い晴れた日に、物作りの仕事をやり始めてから出会った、陶芸家の友達の個展に行ってきて、ものすごくいい体験をして帰ってきたことも、今日はただの日記を書く日なので書いておきたい。

彼女のトークショーに行ってきたのだ。
初めてのトークショーだから来れる人は来てくれというアナウンスがあり、行く行く〜!と行ってきた。

器をつくる職人としての彼女のことはある程度は知っていたつもりだったけど、美術館での個展で芸術品を展示して、それを語る芸術家としての彼女の話は面白かった。
詳しく書くと私がどこのだれか身バレしてしまうかもしれないけれども、芸術をやる人や芸術を好きな人、それについて考える人の言葉は、やはり二番煎じではない、その人の中から生まれたものであるなぁということをいつも思っていて、知識をばら撒くだけの人や、誰かからのコピペの人とかはやっぱり前後の文脈の通じなさでなんとなくわかってしまう。

けれども、自分で作るために、そのために勉強して進んでアウトプットしている人の言葉は自分の中から生まれたものだな、とやっぱり思った。
物作りは、最初はそうでないとしても、やっていくうちに自分の内面と向き合って作るものでしかなくなるから。
わたしはそんな大それた人間ではないけれども、他人の言葉を借りて人に何かを伝えることはしない人間であることは言っておきたい。
かならず自分の言葉で、自分で考えたことをいう。
それでありながら素人なのでだからこんなにまとまらない。
だから二番煎じの言葉は二番煎じだな、と面と向かって話せばわかってしまう。
でも二番煎じの言葉で話してる人ってそんなにいないけど。たまにいるのね。ほんとうにたまに。

話は戻って、だから、彼女から出てきた陶芸を語る言葉がほんとうに面白く思えた。
これからも面白い変なものを作ってくれよな。
もっと余裕ができたら、道具ではない芸術品のほうを彼女から買いたいなぁ、買ってとっておきたいなぁ、と思った。

彼女が作った道具をひとつ買って、ものすごく晴れためっちゃ暑い帰り道の景色を、いつでも思い出せる記憶の引き出しにしまってから眠った。

昨日はそんな日だった。


そんなこんなで色々書いたが、まあ、嫌なことや辛いことがあっても、笑って楽しく喜びながら生きていくことは決まっているので、明日もきっと晴れてて、晴れてるだけで幸せになれる自分のままで、生きてく、だけ。

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