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胸の中の物体X

タイトルはおいハンサム2の次女のセリフである。

-名前をつけなくてよい-

かくいう私も数年前に占いにやたらはまったことがあり、人のことは言えないのだが。
流行りの性格診断や、なにかしらのアルファベットで自分の素質に名前をつけることは、ほんとうに!ほんとうに!もうほんとうに!!よくない!!と思う。血液型も。星座も。
他人にそういう偏見シールを貼って納得するのも、自分に同じようなシールを貼って喜ぶのもよくない。
ひとりひとりが、何にも当てはまらず、宙ぶらりんで、なんとも言えない存在のままでいいのだ。

元々は、世の中の何にも名前なんてなかったのだが、人間が生まれて、名前をつけた方が便利なので、いろいろと名前がついたんだろうけど、もうこれ以上は、名前をつけすぎると溢れてしまう、と思う。もう溢れている。

もういい、ほんとうに。
謎の横文字、頭がいい人が使うカタカナの言葉、無限に作れる自由自在のハラスメントの数々。

被害者でありながらみんな加害者なのだよ。
名前をつけたところで生まれる違いなんてたぶんそんなに大したことなくて、みんな傷つき傷つけながら生きているし、血が流れてる呼吸をしてるってことで、もういいのではないか、と思うくらいに、人とわかりあうことを諦めていて。

でもそれでも好きだとおもったり、わかりたいとおもったり、それでいいんではないかと思うことと、全人類が世の中の全ての性格診断や占いをしたら、たぶん全員同じになる気がするな、ってことと、今日と明日で別人だし。
なんかそんなかんじで。

よくわからないこと、もあっていいと思うし、自分とはよくわからないんだよね〜でいいとおもう。
名前をつけてもわかったことにはならないし、そんなに守らなくても大丈夫だと思う。


-変人だった-

伊藤潤二さんの漫画とアニメをみたら、その日に家族でバーベキューをしたのに、エビがゲテモノに見えて食べられませんでした。
鶏肉が、富江に思えて食べられませんでした。

だけれども、子どもの頃あんな風な妄想で頭がいっぱいで。
お母さんが待ってた楳図かずおの漫画は、ほんとうに大好きだった。
今は伊藤潤二も好きで。

エイベックスが牛耳ってた時代の小学生(女)が、漂流教室の漫画の方が好き、なんて、クラスの友達に言えず、結局夫にもいまだに好きなんだとは言えず、母にしか楳図かずおや伊藤潤二のよさを言えないくらい、幼稚園の頃変人としていじめられたことが根強く残ってたけど。
トラウマとか他人の目とかそういうのがいつのまにかどうでも良くなり、今になってアニメを見てたら、こんな変なアニメや漫画がファンから愛されている側面があるこの世界が、嬉しくて嬉しくて泣けました。
みんな首吊り気球とかそういうのすきやもんね。

恥ずかしく思ったことは一度もないけれど、子どものわたしに教えてあげたい。
楳図かずおが描くこの化け物を好きな人がいっぱいいることを。

変であればあるほど好き。
理由はなし。
そんな自分が好きだけど、そんな自分を好きになるのが目的なのではない。

でもニキビが潰れる回だけはきもすぎて見れなかった。あれは苦手。グリセリド、、、、、やめてくれ〜。
角栓の動画とかもふいにでてくるのほんまやめれってめっちゃ思ってめっちゃブロックしてる。
グリセリド漫画版読んでしまわんように気をつけないとな。


-いつも自分中心のヒロインごっこ-

娘と息子はいつもママの隣で寝る権利を取り合いして喧嘩している。
わたしは端っこギリギリで丸くなって寝たいので。
子供たちに挟まれて寝たくない。
今日は娘は昼寝をしたので、先に息子を寝かしつけ、その後娘に絵本を読んであげた。
読み終わって、電気を消して、手を握りながら、学校にどんな子がいる?だれがすきなの?君は世界一かわいいよ〜大好きだよ〜といろいろ小声で話していると、またあれがやってきた。

子どもがこれ以上大きくなるの寂しいからやめてくれ症候群。

ままは君たちが"はたち"とやらになるのがさみしいよ。
この小さい手が、いつかわたしと同じ大きさになるときには、もう一緒に寝てくれないし、大好きだよ〜ってハグしてくれることも、なんなら会話もなくなるかもしれないと思うと、寂しすぎる。
子どもたちがいつか家から出て行くならこの家はなんて広いんだろう。
夫とふたりのイメージなのに、なんて寂しいんだろう。

などと考えると、涙が止まらない夜だ。
目の奥が締め付けられるように痛い。
また会いたい。赤ちゃんの君たちに。
宇宙で一番素晴らしい寂しさを抱えているような気さえする。
なんて自己中。

そんなふうに1人涙を流していたら、人生で一番後悔していることが、ふわっと思い出されて、妹よごめんなさい、と思うと更にたまらなかった。
人生をあるポイントから選んでやり直せるなら、子どもたちには会えなくなるが高校生だったあの晴れた日を選ぶか、どの日も選ばないかのどちらかだな。

なんでいつもいつも選ぶ時に、たまに、わかってて違う方を選んじゃうんだろうな〜。

でも私は知っている。
こんなふうに寂しくて泣く夜、後悔して泣く夜、その時間は人間としてとても幸せな時間であることを。


-惡の華-

なんかやばそう!うひゃ!と思ってアニメみてみたらエンディングの曲めっちゃ怖いけどめっちゃ癖になるすんごい曲で。
アニメも面白くて。続き!と思って原作調べたら、あの押見修造さんなのね。
血の轍有名だよね読んでないけど。
アニメみてから惡の華全巻電子版で読みました。面白かった〜。

押見修造さんの漫画は、何年も前にネットで偶然漂流ネットカフェを読んだんだけど、なんだよまた性的搾取漫画かよ!、と思って怒りで読むのをやめたんでした。
当時は漫画のエロ表現が耐えられなくて。

その後考え改めることがあり、何でもかんでも性的搾取ではない!と今はおもってるところがあって。
押見修造と知っても、嫌にならず読めました、惡の華。

仲村最高。
小学校低学年の頃のわたしは完全に仲村だったわ。
ここまで爆発はできなかったけど、あの頃苦しんでいたわたしの代わりにやってくれよ仲村!と応援したくなる存在で。
漫画の中だけど仲村がいてくれて、仲村をみんなが読んでいるだけですごく救われる。

個人的に思うことなんだけど、子どもの頃や思春期ののなんやかんやを、正しく爆発させることができればよいんだけど、変な不発で終わるとだいぶやばいと思ってる。
もしそういうのがあれば、だけど。
でも枠からはみ出さなくても生きていけるみたいな人もいてそれが木下で、木下にもいろいろあるだろうけど、爆発してても目立たなくて。
わたしからしたらいちばん羨ましい存在。
かわいくて友達思いで。

あと逃げるな、ってのは、もうやめてほしい。
正しい逃げもあるから。
全部に立ち向かってたら精神もたないので、逃げる時と立ち向かう時の判断材料を、ギブミーとな。
逃げるな、というのはあくまで自分の気持ちから、であって、他人から、ではないと思う。

そしておそるおそる、

血の轍も読んだんだけど。
母は親戚関係に悩んでいたし変わってる人物だったけど、わたしのことだけは自由にさせてくれて守ってくれてたし、逆に、あのすごい嫁いびりの環境の中で、よくわたしに自由を与えられたな、とありがたく思う。
あと、父も、よく怒っていた。守ってくれていた。
祖父は母だけではく、うちの犬もいじめてた。
みてないときにうちの犬にホースで水かけてたの、ひどいよね。
妻をいじめないでくれ、飼ってる犬や娘たちををいじめないでくれってよく怒ってくれていた。
父が祖父に怒鳴ってた記憶もある。

父と母は子供にとって、まともでいてくれたな、と、あらためて感謝する。

血の轍は、読んでよかった本。
毒親育ちではなくても読めばかなりきつい。
こんな苦しい思いをするのか、と。
それでも生きているのか、と。

わたしにものすごく嫉妬したり当たり散らしたりしてきた、職場やプライベートで出会ったいろんなそっとしておきたい人たち、あれが自分の母や父として存在するところから人生が始まってるってことでしょ、想像できない。

血の轍と惡の華はもっと深く感想かきたい。


-なんかすげー頭かたくなってる?-

もうずっとずっとずっと人が好きで、わたしはそれこそ、相手の壁を壊して人と仲良くなってきたタイプだったんだけど、そんなふうに自分の心を開きまくって生きていたら、ある日ダイレクトに悪意を持って刺してくる人に出会ってしまって、そこから完全に壁を作る人になりました。
自分の確固たるもの、なんてそんなもんさ。
内臓丸出しで生きてたのに、正装するようになった、くらいの壁。
それでも、過去の自分の幽霊なのか分身なのか、わたしの壁を壊してくれる人にたくさん出会っていて、その度に帰宅後嬉しくて泣く、みたいなことが多くなってる。
わたしは、今は壁を作ってさらに殻にこもっていたい、どうかひとりにしておくれよ、という気持ちで。
ご近所さんに会うのですら少し怖いし、そのナイフ女に重なる人がいたら動悸がするレベル。

いつかまた、人にオープンハートで行ける時がくるのかな。もう疲れちゃったな。
と思っていたんだけど、やっぱり人と会う楽しい、というか、楽しそうにしてる人たちを見てるのがほんとうに楽しい。

ずっと、あっちこっちゆれている。

-はたとうばん-

1度はやらなあかんPTAも、2ヶ月に1回のはたとうばんも、子どもの学校のプリントも、学校の物の管理も全部女の仕事かよ?!とはたとうばんが回ってくるたびに夫に怒ってます。
でもまあ、はたとうばんは嫌いじゃない。
でも、夫に、何もやってないよな?と言いたくなることを正当化するのに便利なタイミングで回ってくるんです。
はたとうばんは、すぐ終わるし、話さなくていいし、子どもたちの安全のためと思うと楽しめるものです。
PTAや参観日はだるい。いらね。
PTAほんといらね。気しかつかわん。

担当する交差点には、日替わりの近所の主婦だけでなく、毎日のボランティアのひともいて。
毎日毎日朝からほんとうにありがたいなぁと、我が子がいるのでもないのに、すごいなぁと初めて話すきっかけがあったからお礼を言ったんです。
そしたらそのおばちゃんめっちゃ喋り出して。
わたしの任務もう始まるからごめんなさい行きます、と、きりあげてポジションについたんだけど、自分の話を聞いてほしい人がここにもいるんだなぁ〜と思うと、救われました。
わかってもらいたい、聞いてもらいたい、ということは、いいことだよね、やっぱ。
聞きたかったな、なんで毎日ボランティアやってるのか。


-夜逃げしたっぽい屋敷の話-

こりゃまた家の近所に、すごく生い茂ってる家があって。
まあまあオシャレな洋風で、明るいグリーンの外観の家。
でも敷地の木がすごい伸びてて、家の中まで横に伸びて、そこから上にも伸びてたぶん家を破壊してて。
肉眼でみえるんだけど屋根の中央は穴があいてて。
うちの近所はまあまあ閑静な住宅街で、新しい家ばっかりのところなの。
その家だけがなんか異様な空気放ってて。
もうずっと気になってて。
近くまで観に行くのは一応まだなんだけど、家でストリートビューと航空写真でめっちゃみてる。

これは噂なのですが、夜逃げ、と聞きまして。 
(噂話はよくありません。)

でも、わたしも、実はそれこそ自分の惡の華時代に夜逃げ経験あるんだよね。
でもわたしたち家族からしたら借金や闇から逃げたんじゃなくて、やばい人間から逃げただけなので、理由としては正当な感覚でして。
きっとその家族も、理由があっていなくなってるだけで、なにもミステリーやサスペンスではないんだろうな〜と思う。
本人からしたらミステリーやサスペンスではなく必死だから。
ついこんな話だったらどう?!おもろくない?!って妄想押し付けちゃうけど、実際結構リアルなんだよなぁ。


ー夕日についてー

高校の頃、父が死んで、世界に深く絶望したあの日。
なんでこんなことになるんだ、人間ってなんなんだ、何様なんだ、お金がそんなにほしいのか、くだらねえ、死ね死ね死ね、地球なんていますぐに、人間とともになくなればいい、と深く憎しみをもって見上げた、あの日の夕日を、あの一瞬の世界の表情を、わたしはいまだに忘れられなくて。
こんなに深く悲しみ、泣き叫び、絶望しているのに、なんでいつも通り綺麗なんだよ、と夕日に怒ったとき、わたしはそれを地球からじっとみられているような感覚になったのを、いまも覚えている。
だけれども、私をみても地球は助けてくれず、いつも通り、どうせ、みたいなかんじの明日を運んできたのだった。

昨日、仲のいい友人が落ち込んでいたので話を聞いたら、なんかすごい詐欺にあってしまったらしい。
信じられない額の。
死にたいなんて思ったことはないよ!と先月言ってた明るい友人が、たったひとつの出来事で、死にたいと語っており、だよな、人はここまで落ちるよな、と思いました。
そのとき16時頃、黄昏時ってやつで。
その帰り道で、わたしは人からの影響を陽の光のように浴びまくるタイプなので、つい友人を思うと腹立つよりも、友人の持つ深い後悔に涙がとまらなくなり。

友人は今絶望しているのに、夕日は綺麗だよな、また明日を運んでくるんだよな、こんなに深く、悲しく、泣いて、忘れられないような、出来事があっても、必ず明日がやってくることに、わたしは絶望してたな、と思い出すとまた泣けて。
自分に精一杯の自分がやってしまった、選べなかったことへの後悔も同時に押し寄せて、なかなかにヘビーな帰路でしたが。

苦しみや悲しみは、ぬぐって消えるものでもないし、多分一生、その時に感じた感覚や感情の記憶はそのままの鮮度で保存されると思ってて。

その記憶の蓋があいたとき、正しく、まっすぐに、わたしは悲しかったんだな、くるしかったんだな、自分を許せなかったんだな、と、後からでもしっかり味わえたら、そのときの自分は成仏すると思う。

苦しみや悲しみは、悪いものではなく、自分を含め誰かを責めるためのものでもなく、ただの自分だけの感情。
大事にすればよいのである。

彼女に幸あれ。


ー他人に厳しすぎるー

サイレントマジョリティのほとんどが、習った歴史が更新されてることを知らないor知ってるけど許してあげなよと言いたいが言えない言わない、だと思う。
わたしは今回コロ◯ブスについて更新されたタイプ。
教養なくてすんませんね。
今は悪い人になってるんだね。テレビに出る人、音楽作る人に、そこまで求めるのかね。
あんなにすぐ謝れるなんてえらすぎると思うんだけど。
なんでそこまで、他人に完璧を求めるのか、はたまた他人のやることを指摘したくなるのかは、自分の中にあるし、知識や教養なんかよりも感覚のほうが大事だよ。感覚大事にしてたら他人のことなんかいちいちなんか言おうとか思わんし。
言葉ってほんとに、人間には扱えないよね....。わたしもだけど....。
人が死んだなら問題だけど、創作物が差別的、なくらいは謝って許されることだと思うんだけど。
差別をよしとはしないけど、ささいな差別なんてそこらへんに大量にあるでしょ。
誰でもやってしまっているし、無知なんて誰でも持ってる弱みでしょう。
若い人が代表でなぜかこんなに怒られて、かわいそうすぎる。
そんなに厳しくしてコンプラばっかだと、いいアーティストはどんどんテレビからいなくなる。
まあテレビにいなくてもサブスクで聴けるからいいけど。
ほんとうに有名人は大変だなぁ、昔から。
とくに好きとかではなかったが、応援したくなっている。
励まし募金、とかないんかな。


一生許さない、で、生きていく人とは仲良くなれない。
"私はどれだけ許して生きていけるだろう"、と思う人と一緒にいたい。
許していこうよ。
ほんとに。




トータルで、やたら若い頃の自分を思い出したり、自分なりの夕日の話が思い出されたりしてるのは、完全に惡の華を読んだせい。
それが押見修造の目的らしいというか、なんか惡の華を読んで自分の思春期を昇華してほしい、ではないけどなんかそんなことをインタビューで言ってた。(思い出した、追体験、です)
ほんとわたし、まんまと、ね。

その頃の人を深く憎んだ記憶は、初恋と、妹と、その3つセットで箱に入ってて。
開けたいくらい美しい記憶とともに、初めての憎悪も花開くわけで、怖くてずっと閉じていた。

惡の華を読んでちょっと覗き込んだような感じはするけど、開けられてはいない。

中学の時からほぼ毎日かいてた日記も、そこだけ黒く塗りつぶした記憶がある。
初恋のことも塗りつぶした。
それとセットなのが嫌すぎて。

大人になって、知りたくなるなんて、思ってもおらず。
いつか開けられるのかな。

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