道徳教育と差別と政治

小・中学生の時、「人権学習」「道徳」の時間が本当に嫌いで苦痛で仕方がなかったという記憶があります。

例えば、いじめられっ子の嫌気がさすほど辛気臭い自意識が綴られた物語を読み感想文を書かされるような授業で、いじめられっ子の立場になって、辛い体験に共感し、いじめられている人が居たら手を差し伸べ、いじめっ子と一緒に戦います、という態度を示せば褒められる時間です。

僕はかなりマジメな生徒だったので真剣に考えて書いていました。

その末に「いじめられる側の人間も実はものすごく人を苛立たせるような人物で同情の余地がないかもしれないし、いじめっ子にも暴力を振るわなければならない事情があるかもしれない。そもそも、教科書のようないじめられっ子のみの視点で考えるべき問題ではない。読んだ内容だけでは自分がどう振る舞うべきかはわからない。」というような、弱者の味方に簡単にはならない態度を書きがちでした。

小・中学生の時は大人しく比較的成績も良い生徒だったので、担任の教師からすると恐らく意外だったのか、静かに職員室に呼び出され、なぜこんなことを書いたのかと問われたり、懇談会などで家庭環境の心配をされたりなどの経験があり、それが非常にショックだった記憶があります。

そして、大して問題について深く考えていないような上辺だけの「弱者の味方になります宣言」をする生徒に、教師達が安堵したように授業の意義を説く姿と、それを黙って聞いているクラスルームの雰囲気に、身の毛のよだつ程の不快感と憎悪を抱きました。

この少年期の経験以来、「人権」や「道徳」に強い共感の態度を示す人は、問題を大して深く考えていないか、無知蒙昧で考える能力がないから、簡単に弱者の味方になったり強者を批難したりできるのではないか、という考えを胸に秘めるようになり、こういう精神性を内面化した人に、何となく違和感を持つようになりました。

しかしこういう内面性の話は、絶対に人に言ってはいけないことなのだろうという直感から、モヤモヤした気持ちを抱き続けていました。

ただ、大学生の時にその気持ちに救いを与えてくれたのがニーチェという有名な哲学者でした。

ニーチェは高らかと明確に、「道徳は人間の掛かる最悪の病気だ」と言ってくれたことに、自分は間違っていなかったのだと、本当に涙が出るほど感動したのを覚えています。

ニーチェとの出会い以降の大学生活は、過去の記憶の「小・中学校的道徳観」との闘争と言える時間でした。そして結果的に、大学生なりの無邪気さが味方し、あの学級会的な「道徳」というのは間違っていて、ニーチェ的なものが打ち勝ったのだ、と思えました。

しかしもう少しだけ大人になって、テレビやSNSでの時事問題の記事を読むごとに、今までバカの証と思ってきた「小・中学校的道徳観」が、知識人と呼ばれる人や社会的に高い地位にある人物も案外内面化していて、意外なほど「小・中学生」程度の水準で道徳的な問題を考えていて、それに反するものに対して思いがけず本気で怒っているみたいだ、ということに気づき始めました。

何か世界全体が、僕が相容れない「学級会」と化しているように感じられ、酷く不気味に感じる時があります。

そうした小・中学校の道徳教育が事実誤認を生じさせ、大人になったときの政治的判断を歪めてしまうという例は大いにあると思います。

恐らく「差別」に対する考え方に顕著だと思います。

「差別」は「誤解や偏見に基づく」というのが一般的に道徳教育において言われますが、恐らくこれは間違いです。

被差別の人間(障害者・移民難民など)には多くの場合、避けられるだけの根拠があります。

例えば労働環境の場合、障害者や外国人が参加出来るように作業工程を設計すると非常に多くの工夫が必要になるので、健常者や日本人だけで仕事をするよりも、多くの時間と労力と費用が必要になります。

そしてそのコストを支払うのは健常者の日本人です。

つまり労働環境に障害者や外国人が混ざることは、平たく言ってあらゆる面で、余計な苦労とストレスが生じます。

学生時代は倫理学を専攻していたので、多少なりとも障害者福祉について勉強しましたが、「障害者にとって働きやすい環境は、健常者にとっても働きやすい環境のはずだ」という方針をよく目にしました。

恐らくこれは専門的な知能労働が可能な身体障害者のため労働環境に手すりやスロープを設備する程度の視野の感想で、障害者全般に適応できるものではなく、道徳教育による無根拠な迷信のように思います。

障害者に合わせて労働環境を整えると、多くの場合作業効率は度外視となってノルマの達成はシビアとなり、またその準備も健常者側に委ねられるため、健常者の労働環境はより過酷なものとなりがちです。

外国人と共に働くため、コミュニケーションに費やさなければならないコストは間違いなく共通語を持つ相手よりも高まります。

ここから生じる不満は、障害者や外国人といった「被差別者」に対する抵抗感を持つには十分なもので、「誤解や偏見」ではなく非常に生々しい実感に他なりません。

差別問題において重要なのは、被差別者は、あらゆる局面で避けられるだけの「実害」を与えうるからこそ差別されていることがありうるが、被差別者はその「特性を自らの意思で変更することが出来ず、従ってそれに責任を持たない」、かつ被差別者も社会に参画する権利は疑いようもなくある、という視点です。

差別の問題の多くは、「実害」と「責任」の混同にあると思います。

差別の解消に不可欠なのは、被差別者に対しての配慮だけでなく、配慮するマジョリティ側の人間に対してのケアだと言えます。

しかし多くの反差別論者と言うのは、知能の高低に関わらずこの視点が致命的に欠落していて、「学級会的道徳教育」の稚拙な水準で被差別者への配慮を説き、配慮する側の人間に無限に近い「同情心」と「寛容」と「自己犠牲」を強要する傾向があります。
要するに道徳を内面化していることで判断が歪んでいます。

しかしそれは余りにも過剰な強度のマジョリティ像の想定とは言えないでしょうか。
その像に合致する強者は本当に存在するのでしょうか。

トランプが当選したのも、リベラル派に分布する(現状リベラル派全体がこの傾向があるかもしれない)この手の馬鹿な反差別論者に対しての反感だと思います。

僕は、トランプに敗れたことで反差別論者が自身の至らなさに自覚的になり、より良く的確な認識を築くことに期待していたのですが、今の所トランプを「道徳的に」批難するばかりで、その兆しが一向に芽吹いて来ないので、悲観的になってしまいます。リベラルは負けて当然だったのではないでしょうか。

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