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名前のない森

自画像としての「名前のない森」について考える

はじめに

 「名前のない森」は「私立探偵濱マイク」というオムニバスドラマシリーズ第6話のタイトルである。象徴的なイメージが連続する、アレゴリー的な意図が感じられる映像作品である。私はこの映像作品に強い共感を抱いており、度々「名前のない森」をテーマに制作を行っている。

あらすじ

 私立探偵の濱マイクは成金風の男から依頼を受ける。娘が、「本当の自分を見つけませんか」と謳う、表向きは自己啓発セミナーを装う宗教的な組織に嵌り帰ってこないと言う。マイクは娘を連れ戻すために、その組織に潜入捜査を開始する。

 その組織には奇妙なルールがある。固有名詞を使ってはならない。マスメディアに触れてはならない。信者たちはお互いを番号で呼び合い、固有名詞で名指しされない「名前のない森」にある、情報から隔離された施設の中で共同生活を送り、「自分の本当にしたいこと」を見つけた時にそこから出て行く。

 組織内で先生と呼ばれる女は、マイクに「森の中にあなたにそっくりな木が生えてるの」と囁く。どういう意味なのか疑問に思いながらも、マイクはその言葉に導かれ森に入り自分にそっくりな木を目の当たりにして、呆然と立ち尽くす。

 マイクの潜入捜査中に二人の男女が「自分の本当にしたいこと」を見つけ施設から出て行く。男は施設を出たあと無差別殺人を行い、女は自殺を図り救急車に乗って施設を出る。組織の異常性に感づいたマイクは、娘を強引に連れ去り施設を飛び出す。その背中に、先生と呼ばれる女は「あなたはここに戻ってくるわ。それがあなたの運命なの。」と投げかける。

 娘を依頼人に引き渡した数日後、マイクは導かれるように先生と呼ばれる女の言葉通りに施設に戻り、「自分の本当にしたいこと」を見つけ、一人笑う。

解釈

 「名前のない森」には同じ木ばかりが生えている。木は全て均一な姿をしていて、それぞれを区別することができない無個性さの象徴のような存在である。

 マイクは個性的なファッションや言動に「自分らしさ」を求める俗っぽい男である。自分の名前の呼ばれ方に対しての執着も強い。

 組織内で名前を奪われたマイクは個性をも奪われたような感覚を持ち、居心地の悪さを覚える。しかし、森に生える自分にそっくりな木を見ることで彼の中で何かが変わる。個性的であるはずのキャラクターが無個性さの象徴としての木の姿をしているという印象的なシーンだ。彼は悟る。

 自分が個性だと思っていたものは、「濱マイク」という名前に付与されたフィクションなのである。彼は「濱マイク」というキャラクターと、自分という存在を同一化することで、自分らしさを持っていると思っていた。しかしそれは自分らしさを持っていることなのではなく、「濱マイク」を演じているに過ぎない。名前に付与される「自分」というキャラクターを演じているということこそが「本当の自分」なのである。マイクは「マイク」ではないのだ。

 「名前のない森」に集まる信者たちは、皆自らの名前に課せられたストーリーに不満を抱き、「本当の自分を見つけませんか」という言葉に引き寄せられて施設を訪れる。組織内で名前を失い、それに伴うストーリーから開放されることで、自分の名前が何かの間違いであるかのように感じ、自分の名前に対する現実味を失っていく。

 しかしこの特殊な異次元装置としての自己啓発セミナーから抜け出すということは、組織内で直感した自分の名前のフィクション性に戻り、その役を再び演じることに他ならない。この現実と、自分の名前が持つフィクション性とのギャップから導き出される「自分の本当にしたいこと」は二つに絞られる。自分の名前のフィクション性を支える他者を全員排除すること(大量殺人)か、自分の名前のフィクション性から離脱すること(自殺)である。「名前のない森」は、自分の名前が持つストーリーに不満を持つ者に対してこの二つの真理を突きつけるのだ。

 マイクは自分の名前のフィクション性に不満を抱いていなかったように見えるが、しかし「名前のない森」を訪れたことによって名前が持つ構造を悟り、一生、自分の人生を演じているという感覚に、自分らしさは空虚なものであるという感覚に囚われ続ける。マイクが見つけた「自分の本当にしたいこと」は「役者」としての人生なのだと思う。この道化としての自分の運命を最後に笑ったのだ。

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