歌姫






──時間が配慮なく流れていく。閉ざされた暗い部屋の隅、足を抱えて背中を丸め小さくなりながら、鈍く締め付けるような胸の痛みと共に過ごす。

 何度も、紙がひらひらと風になびくような音がする。

「……」

 鼓膜が張り裂けそうな沈黙を、窓から差し込む暁光が破る。眩しくて直視できない。目線を下に移す。

 大事な猫のぬいぐるみ、それから、床一面に文字が書き殴られた無数の紙が広がっていた。

 涙がスッと流れたが、それをどうすることもできずそのまま眠る。──




 ケバケバしく卑猥な光が回るキャバレー、目に焼きつく原色の布きれに身を包んだ甘ったるい声色で話す二人のホステスの寄せて上げて盛り上がった胸のふくらみを冗談めかして笑いながら男が指でつついたり揉んだりしている。建前上客とホステスであるが、実態としては肉体関係で繋がった三人であり二人の働く店に三人で飲みに来ている、そのような状況であった。

「ちょっとしょんべん」 

 はしゃいで飲みすぎた男は尿意を催し、トイレに駆け込む。すると、ちょうど掃除用務員の女が小便器を洗っていた。
 男は立ち止まり軽く会釈して、その隣の小便器の前でズボンのボタンを外し用を足しながら、その女の姿を眺めていた。歳は二十代後半くらいだろうか、肌が少し青白く不健康そうではあったが横顔が美しかった。

 体の中で過剰に自己主張していた膀胱がみるみるうちに大人しくなったのを確認すると、男はズボンのボタンを締め、グッと股間を撫でてから女に声をかけた。

「ご苦労ですねぇ。ねえ、隣でごめんなさいね。
しょんべんしているのって、割と気にならずに掃除できるんすか?」
「へっ!?」

 女は酔っ払いのあまりにも率直で急な質問に、小便器を擦る姿勢をビクッと起こし、こちらを向く。多少目が離れた、魚みたいな個性的な顔立ちをしていたが可愛い顔の女だ。大きく黒々とした丸い瞳が緊張と戸惑いと面倒の色をかき混ぜながらこちらを睨む。

 男はその眼差しの冷水に、一瞬で酔いが醒めてしまった。

「遅いよ〜おしっこ長すぎ〜」

 凍った空気に鋭い熱風が吹き込むように、二人のホステスがトイレの入り口から叫ぶ。男は振り返り、ばつが悪そうに二人を一瞥すると、サッと名刺を取り出して急いで女に手渡した。
「何か用あったら連絡ちょうだい」
 耳元とは言わないまでも顔を近づけて、小声で男は言った。

「誰そのおばちゃ〜ん?!」
「何、誰?!」
「いや、たまたま。なんもないって。」
 男は大急ぎで駆け寄って二人の肩に手を回し、頰にキスをしながらトイレから出て行った。

「いっぱい出たからもっぺん飲むぞ〜」
「のむぞ〜!」
「今度は中に出してやっから!」
「キャハハハハ!なにそれ〜!」
 気を取り直したホステス達と男の笑い声が遠ざかっていく。

 掃除用務員の女は茫然としながら手元の名刺を見る。男は探偵だった。




 目覚めると頭いたい。昨日の記憶がほとんどない。いや気持ちよかった気がする、いやでもなんかベタベタするからシャワー浴びたいし、なんか体臭いし、下半身がすごくムズムズするからシャワー浴びたい。いや銭湯でゆっくり、掛け時計は昼の3時、まだ開いてない?気持ち悪いけど腹は空いてる。重たい体を持ち上げてキッチンへと向かい、とりあえずコーヒーを淹れる。

 ドンッ!ガチャン!!

「お兄ちゃんのとこ、レコード聴けたよね!!?」

 興奮気味の妹が自宅兼事務所のドアを蹴り破る勢いで開けて入ってきた、うるせえ、頭に響く。

「これずーっと探してたんだよね」、レコードにゆっくりと針を落としながら、ジャケットを妹が突きつけてきた。

これ……昨日の……。

 程なくしてゆったりとしたテンポに合わせて、憂いを含んだ、それでいて澄んだ歌声が流れてきた、ムカムカした体がスーッと軽くなるような思いがした。

「いい曲だよね……」

 妹は少し涙目で言った。

「しかしレコードで、結構古い曲なんだろこんなの、どこで?」
「いい曲は簡単に時代を超えるの!」
「いいこと言った!今いいこと言ったねぇ〜!流石は俺の妹!」

 染み入るような歌声のおかげで、いつもの調子を取り戻した頃、クツクツ言ってるコーヒーの香りを逃がすように、BGMを外に漏らすように、そっとドアが開く。

「ごめん、ください」
 女が恐る恐る入ってきた。

「あ…。」
 女は一歩後ずさる。
「あ…。」
 妹は身を乗り出す。

「え…、えっ!うそ?本物?え?うそ?!」
「うるせぇうるせぇ!お客様!」
 妹をキッチンへと押し込んで、カーテンを締めた。

「BGM!あんたプロの歌手だったんだね!通りで見た目雰囲気あると思ってた!」
 念のためトイレで渡した名刺が功を奏し、嬉々としてジャケット写真を突き出してそう言い、女を席に着かせた。

「ええ、そう…ですか。だったら話が早いです。その…捜して頂きたいものが…。」
「え、なに、本当にお客さんなの?ああ……。えーっと、どういったご用件で。」

 後ろに倒れこむようにソファに座りタバコに火をつけた。

「私が……歌えなくなった理由。」
 女はこちらの表情の出方を慎重に伺うように言った。

 火のついた紙の筒、フィルター通して最初のひと吸い、白い吐息を長く細く出して、
「歌えなくなった理由……。ふん。あのー、それはさぁ、ほら探偵じゃなくてお医者さんとかさぁ、カウンセラーとか、そういうのに言って貰わないと。」
「そういうのは……ダメなんです。あなたみたいなひとだからこそ。」

 そう言われてもね。

 女はおもむろにカバンから写真を取り出し、「この人が……鍵を知ってます。」立ち上がり写真を差し出してくる。

 灰皿にタバコを立てかけ受け取った写真には白髪が目立つ中年の男が写っていて、まじまじとその男の特徴を頭に叩き込むように眺めていると、「お願いします。」急かされるように外へ唐突に出て行った女。

「ちょ、ちょっと!」

 不意をつかれて扉に駆け寄り、いや二歩戻りタバコをグリグリと押し消しやはりまた扉に向い開けて女を探すその一連のまごつきを笑うが如く、しかし女はもういない。タバコ一本吸う間すらなく謎の写真を残しただけで一体これでどうしろと。長く残したタバコが惜しくてまた火をつけた。ああ、どうすっかなあ。
 それから、キッチンのカーテンが開いて、「あの、お兄ちゃん?お客さんにコーヒー、あれ?」って妹、タイミング。




 ──依然として、暗い部屋の隅で、ぬいぐるみを抱えてうずくまっている。

 蛹。繭としての部屋。

 ひらひらと落ちてくる紙がうず高く重なり体が埋まるほどに積もっている。
立ち上がろうとすると、積もった紙がそれを拒むように逆立ち、断面で体を切りつけてくる。書き殴られた文字と共に体に絡みついてきて、ここから逃げられない。

 イモムシは蛹になるときに、一度体をドロドロに溶かしているという。この刃達はちょうど同じように、きっと体を粉々に切り刻んで、ドロドロにするつもりなのだろう。だとして蝶になれるのかな。

 遠くからパトカーのサイレンの音がする。強く耳を両手で塞いでいるうちに、いつの間にか眠りに落ちる。──



 ライブハウスを経営する友人に男の写真と、女のレコードジャケットを渡して協力を促した。

「あーいい歌うたってたね。結構前だけど流行ったよね。でも絶版なんだよね、それ。レア。良い。」

 確かに素晴らしい歌声だったが、実際彼女は一部の音楽好きに熱狂的に支持されていたようだ。それが数年前忽然と姿を消したらしい。

「これくれるなら、心当たりを当たってみるよ。」

 やはりそう来ると思った。彼を頼る以外に音楽業界にコネはない。妹には悪いが背に腹は代えられない。友人は協力を快諾してくれた。


 後日、早速報告があった。写真の男はわからないが、彼女が歌手として活動していたときの関係者が見つかったそうだ。

「会ってみるか?まあ、でも気をつけてな。ボスみたいな人というか、怖い人だから、粗相のないように。」


 面会のアポを取ってもらう。数日後。人通りが少ない待ち合わせ場所には黒塗りの高級車が停めてあった。こちらの存在に気づいたようで、ゆっくりとウィンドウが下がり、微笑をたたえた丸いサングラスのスキンヘッドが合図を送ってくる。 
 鋭く息を吸い込み、止め、歩みを進めて後部座席に乗り込んだ。

 男がサングラスのブリッジを、中指で押し上げると、車は音もなく走り始めた。

 数十分間、自己紹介とたわいもない枕詞としての世間話をした。男は薄い笑みを保ったまま、何故か猫のぬいぐるみを、頭から尻にかけて、ゆっくりと撫でながら、時折頷きながら静かに話を聞いていたが、その姿は異様な威圧感を放っていた。その微笑みからは、粘着質な緊張感が発せられていて魂を絡め取られそうな感覚が生じる。脂汗が止まらない。落ち着こう、タバコを取り出した。

「あ、遠慮してもらえます?」
「あ、ああ、はい。」

 タバコを箱に戻した、つまり落ち着けない。間を繋げなくなり、本題に入る。

「あのー、彼女なんですが、ご存知ですよね?」

 ジャケット写真を更に写真に写した写真を、不気味な凄みを醸し出す男に渡した。

「ああ、彼女、いい歌歌ってたよねえ、人気も出て。小銭を稼がせてもらったからねえ。彼女、突然いなくなっちゃって。」
「何かそのことで他にご存知ですか」
「ええ、まあ人を殺してでも歌をうたいたかった女ですからね。」
「……?!」
「なかなかいるもんじゃない。彼女は良い売り方ができますよ。もし彼女見つけたら私に居場所教えてくれません?」

 男は静かだがねっとりとした話し方でそう言い、タバコを取り出し火をつけた。吸いたかったタバコに声が出ない愛想笑いをしたが、直感的に彼女からの依頼であることを悟られてはいけないと思い、今度は彼女からもらった白髪の中年の男の写真を渡して話を変えようと試みた。

 ところが何故かその写真を見た男は、顔を下に傾けるようにして、丸いサングラスの上の隙間からこちらを殺意の目で睨んだ。

「降りろ」
「え?」

 急ブレーキがかかりドアが開いた。

「出て行け」
「……?」
「消え失せろ!!」

 鬼の形相をした男に蹴りだされ、車から転げ落ちた。即座にドアが締められ、車は猛スピードで発進して行ってしまった。

 あまりの急変に事態を脳が処理するまでに数秒かかった。遅れて怒りが込み上げてくる。

 「なんだあのクソ野郎が!!……どこだよここ!クソがー!!」




 ──締め付けるような胸の痛みは、徐々に引いてきた、いや引いてきたというのは適切ではなく、その痛みとは別の迸るような熱い何かが、その痛みを包み込んでいくような、痛みがなくなったのではなく、新しい何かになったような、そんな感覚の芽生えを感じた。それとともに、外に出るための隙間が、光の筋が見える、イメージが湧く。

 あれほどまでに頑なに薄い刃となって立ちはだかっていた紙の群れが、今ではそのうねりを正し、静かに真っすぐに部屋の扉への道を形作っていた。書きなぐられた文字に導かれるようにしてぬいぐるみと一緒に扉を開けて外に出た。

 ボロアパートの二階から錆び付いた階段を下りて、通りの路地を曲がってでたところにある公衆電話に向かった。

「もしもし、探偵さん?」
「おお?!あんたか、なんかあんたを知ってるとか言うハゲの車に乗ったら訳わかんないとこまで連れてこられてよお、ここどこだよ!」
「そうか……。案外早かったですね。」
「ああ、それからさあ、人が殺されてるってどういうことよ!」
「…………その辺りにすごくコーヒーの美味しい喫茶店があるんですよ。行ってみてください。」

 そこで電話が切れた。

「ちょ、ちょっと……ああ?喫茶店?」
 おそらく次の手がかりなのだろう、仕方ない、周辺の喫茶店を手当たり次第に探すことに意気込んだが、あっさりと二軒目の店で女の写真を見せたら反応があった。

「ああ、君か。聞いてるよ。いらっしゃい。」
 勧められた喫茶店のおそらくもともとは白かった壁はタバコのヤニで黄色い。かなり年季の入った店だ。

「早速なんですが……」
男はタバコを箱から出しながらそう言った。

「ああ、その前に、あんたのことを警察がつけてる。それ巻いてからまた来てくれ。」
「え?」

 店の窓から外を眺めると、電柱の後ろから、定年間近の様相の小太り眼鏡の男がひょこひょこと顔を出しこちらの様子を伺っている。あれで隠れているつもりなのだろうか。かなり愚鈍な男だ。

 タバコをしまって、店主に軽く会釈してゆっくりと外に出る。

 ドアを締めて大きく深呼吸してから、警察官が見えた方と逆方向へ、全力で走った。

 ほぁっ!と漏れる瞬発力でドスドス重たい警察官に走りながらも目をやると、ゼーゼーゼーゼー喉元につっかえた苦しい表情で追っている。

 路地、右左、コンクリ階段駆け上り、右右左、左右左、細い路地、まっすぐ、右で行き止まり、ではない、金網フェンスによじ登り、駐車場、出て左の一通道路、表示の通りに50m、右に曲がり100m、左30m、走ったところにある大通りのスーパーマーケットのトイレでリバーシブルの上着を裏返しに着てからミネラルウォーターとタオルと制汗スプレーを買って道を大回りにクールダウンしながら、喫茶店に戻った。

「はあ〜、おっちゃん、疲れた〜!」
「はい、おつかれさん。じゃあね、次の場所なんだけど、ちょっと難しいよ、なんだって、郵便屋さんも行きたがらないところだから。」
 
 店主はそう言って、壁に吊るされた紙テープを身長ほどの長さでちぎると、机に座って、黙々とボールペンで何か書き始めた。

「わかってあげてくださいね。あの子にはどうしても伝えたいことがあったんだ。一番大切なものはなくさないと分からない。だから、自分の一番大切なものをなくしてしまう必要があったんだ。まあ、そういうことです。……うん、はい、書けたから持ってって。」

 そう言って店主は紙テープを差し出してきた。その長い紙テープには細かい文字でびっしりと、右左右右右左左……と言った調子で書かれていた。

「おっちゃん、なにこれ?」
「道だよ、それに従って行けばいい。振り切った警察もじきにまたここに戻ってくるだろうから、すぐ出て行きな。鍵を取ったら戻ってくればいいさ。」
「はあ……。ありがとうございます。」

 言われたとおり、店を出たところから紙テープを指と目で追いながら、右、T字路を左、次の角を右、と言った風に歩いた。どんどん日当たりが悪く暗い狭い路地に入っていった。 
 右……行って、えー……また右、はいはいまた右ね、み、ぎ、行って……左、左!?ん、あー左の扉を開ける、はいはい開けて……で、階段を、降りる、はいはい降りる、で、着信音とバイブレーション。妹、タイミング。電話に出るとヒステリックに叫んでいる。友人に無断であげたレコードの件だ。

「あー、うるせーよ!わかんなくなんだよ!わかったよ!今度埋め合わせすっから!じゃあな!」

 無理やり電話を切ると共に、電源も一緒に落とした。道順は見失ってない。良かった。


 一時間強、誰ひとりともすれ違うこともなく、建物と建物の隙間を、アスファルトで舗装された道なき道を、ひたすら進み続けた。

 紙テープの終わりが見え始めた。長らく続いたギリギリ一人通れるような間隔の隙間から、少し広めの路地に出た、と言っても、車は無論入れないような道幅ではあるが。最後の文字通り左に曲がると、すぐ先が行き止まりで、壁を正面にしたボロボロの廃墟が右手にあった。

「ここかよ……」

 玄関は両開きの引き戸のようだったが、右扉は湿気でたわんだベニヤ板が立てかけているだけだった。ちゃんと戸の形をしている左の方をノックする。

「ごめんくださーい!」
「だーれー?」
「あー、えっと、喫茶店のおっちゃんに聞いてきた、探偵ですー。」
「あー。」

 ベニヤ板が上に持ち上がり、内側に消え、男が出てきた。

「そっちが開くんですね……」
「聞いてるよ、入って」

 それは彼女が残していった写真に写っていた、「鍵」を知っているとか言う男だった。男の姿は写真で見たそれよりも、はるかに痩せこけていて、頭髪はより白く、乱れていた。くたびれたワイシャツとネクタイに、斑点状にどす黒く、血か何かが飛び散ったような薄汚い猫のぬいぐるみを抱いている。

「水でいいかな?水しかないんだ。」
 ボロボロの畳の上、部屋の真ん中にあるちゃぶ台に、コップに入った粗末な歓迎。とりあえず、歩き疲れて喉が渇いていたので、ありがたく少し口に含む。不思議と気持ちが落ち着いた。直後にタバコを取り出し、火をつけた。やっとゆっくりと吸えそうだ。

 男はちゃぶ台をはさんで正面で正座になり、大事そうにぬいぐるみを腕の定位置に収め直した。

 

「あのおっちゃんに聞いてきたってことは、あの子に認められたってことだ。あの子の覚悟が出来たってことだ。」

 男は溢れ出る微笑みを噛み締めるように頷き、ぬいぐるみの後頭部に空いた穴をまさぐり、何重にも折り重ねられた紙を取り出し、ちゃぶ台の上に広げた。

「これ読んでみて。すごいよ。」 

言われるがままにシワだらけの紙に目をやった。

「すごい詞だろ?それ、あの子が五年前に書いた。レコーディングもした。」
「……。」
「あの時、あの子には恋人がいた。あの子はすごく幸せだったはずだ……。僕はそれが納得がいかなかった!」
「……!?」
「そ、その歌のテーマは失って初めてわかる心の痛みだ、なくしたものの愛おしさ。そ、そんな歌を!!ただ幸せな奴に歌えるか?!歌えるはずないそうだろ?!だから、あの子には、う、失ってみろ。失え!殺してでも失え!!」

 男はまるで何かにとり憑かれたように目玉を引ん剥き唇をビクビクと震わせその端に白く唾を溜めて、脅迫するようにこちらに身を乗り出して叫んだ。

「それで……。」
「いい歌をうたう為です。リアルな歌をうたう為です。」
「……。」

 何と返して良いか分からず、時間が固まった。指の間に抱えたタバコから一定の速度と分量で、静かに煙が上がっていた。

 男は沈黙を切り取るように再びぬいぐるみをまさぐり、鍵を取り出した。
「頼むね。」




 廃墟を出て、さっきと逆に紙テープを持ち、また歩き始めた。もう一度喫茶店に戻るために。行きに比べて帰り道はとても早く感じた。まるで、深い眠り、夢の世界に入るためには時間がかかるのに比べて、目覚める時は一瞬であるかのように。

 あともう一息、見覚えのある道に出てすぐに、紙テープをクシャクシャに丸めて路上に捨てた。ここまでくればもう迷うようなこともない。

 喫茶店に着くと、早速店主に鍵を渡した。

「それじゃあ、鍵を開けにいこうか。」
 そう言って歩いて三分ほどの小さな、何かを覆うためだけのような小屋に案内された。正面に錆びた鉄の扉、大きな南京錠が付いている。店主は受け取った鍵を使って錠を取り外し、重い扉を開いた。

 扉の中、すぐ内側に、2m弱程の幅の穴が空いていた。低い天井には滑車とロープ、それが穴の中央に向かって真っすぐに垂れ下がっている。覗き込んでも真っ暗で全く下が見えない、恐らくかなり深い。

「さあ、どうぞ。」
 恐る恐るロープにしがみついた。
「これさ、どこ行っちゃうの?」
「どん底!」
 店主が壁に付いているスイッチを押した。

カタカタカタカタ…… ゆっくりと滑車が回り始める、が徐々に不吉に加速していく。

「うわーーーーーーっ!!」

 体がどこまでも落ちていった。




 戸を激しく叩く音がする。男がベニヤ板を持ち上げようとすると、すぐにそれが外側から強い力で引き剥がされ、小太りで眼鏡の警察官が中に入ってきた。手にはクシャクシャになった紙テープを持っている。

「追いつきました、探しましたよお!」
警察官は低く重たい声で威圧するように言った。

「結局、僕には追いつけないということでしょう?探せなかったってことでしょう。僕から居場所を教えてやったようなもんだもんね。」
 男はぬいぐるみを持ち直して、冷たく笑いながら言った。

「間違いないね、殺人の容疑で逮捕だ。」

 警察官は男の腕をむんずと掴み手錠をはめた。ぬいぐるみは乱暴に地面に叩きつけられた。




 何秒か、何十秒か、しかしとても長く感じたが、とにかく猛スピードで下に落ちた。足元をライターで照らすと地面に取っ手が見えた。引っ張ってマンホール状の扉を開き、穴の下を覗き込むと、見上げる限り白く濃霧に包まれた荒涼とした大地が見えた。

 丸い穴から腕を伸ばし、体を穴の外側へ引き上げる。よじ登って立ち上がると、地面の傾斜がきついことに気付いた。

「何だここ……落ちたはずじゃ……。」

 目の前が真っ白でほとんど先が見えないが、とりあえず、坂の上を目指して歩き始めた。五分ほど上り続けると、猫のぬいぐるみと、そのすぐそばに一輪の花が咲いていた。

「墓ってことか。」

 すると、かすかに鼓膜を震わせるような音、いや歌声が聞こえてきた。ゆっくりと近づく。あのレコードの歌だ。

 彼女の透明な歌声が霧を少しずつ晴らしていく。同時に、暁光がその合間から差し込む。彼女はそれを真っすぐに見つめ、歌う。歩みを進め、彼女の隣に立つ。見晴らしが良い、ここは山頂だった。

「殺したのか。」
「……。」
「本当に殺したのか、歌のために。」
「……分からない。いろんな私が居て。でも……、一瞬でもそう望んだのは本当。」

 こちらを見つめる彼女の眼差しにイメージが広がる。恋人の頭を後ろからハンマーで殴った。二度。骨が砕ける鈍い感触が伝わり腕がジーンと痺れた。部屋中に血が飛び散り、彼は倒れこむ。

 次に彼の体を仰向けに返し、首元に手をかけた。確実に失うために。彼の優しい体温を、脈打つ鼓動を、掌に、記憶の奥底に、焼き付けるように、彼の存在を忘れることのないように。

 次第に緊張の防壁は涙で溢れかえり崩れた。嗚咽が何度も私を真っ二つに切り裂いてくる。彼といつまでも幸せに居たい。だから、今消えようとしている存在を噛み締めるようにキスをした。少しでも長く、その存在を、ここに、つなぎとめるように強く抱きしめた。

 愛してる。

 愛していた。

 冷たくなっていく彼の体と共に言葉は過去になっていった。そして猫のぬいぐるみの姿を借りて、彼の血の匂いだけが残った。

 

「おーい!聞こえるかーっ!警察だっ!」
 遠くで怒鳴り声が聞こえた。

 彼女は満足そうに諦めの微笑みをこちらに向けて、降りるね、とつぶやき、声のする方に足を踏み出した。
 俺は彼女の腕を掴み、逆方向に引っ張った。
「降りるなら、もう一度、こっちへ!」
 俺たちは急いで駆け下りていった。




 舞台裏、彼女は膝を抱えてうずくまっている。

「歌えるかい?」

 俺の質問を彼女は沈黙で返した。

 友人のライブハウスを借りた。彼女にいい歌をうたってもらいたかった、ちゃんと歌手として。友人が口コミで、彼女のシークレットライブのための広報活動をしてくれた。熱狂的なファンが大勢観客として集まった。もちろん妹も呼んだ、せめてもの、いやあるいは余りある罪滅ぼしを。


 表向きは休演日。正面玄関にはシャッターを締めて、スタッフ用の搬入裏口から観客に入ってもらった。舞台上からの眺めというものを今まで味わったことはないが、裏から見ていても、これほど観客の熱というものが伝わってくるものなのか。時間が近づくにつれて、期待の鼓動がこちらに伝わってくる。

 ムクムクと膨らんでいく観客たちの胸の高鳴りは、照明の暗転によってグッと、そのままの形で凝り固まったかと思うと、スポットライトに照らされた彼女の登場により、弾ける歓声とともに一気に噴火した。彼女が舞台の中央に設置されたマイクスタンドの前に立つと再び暗転、観客の歓声も収まり、会場全体がシンとした熱い緊張感を取り戻した。

 ズーン、と体の芯に染み渡るような低いイントロに合わせてじんわりと、朝日のように赤い照明が、もう一度押し寄せた歓声の波と共に会場全体に広がり全てを包み込み、数秒後、彼女が歌いだすための息を吸い込むと、観客の興奮は全て各々自らの聴覚に集約されていった。


 彼女の声は現実と夢の間を溶かすように美しかった。これ以上の感情の高まりなどあるはずがない。この瞬間、彼女の声が空気を伝って鼓膜を撫でるこの瞬間以外に、もはや他に何も望むことなどない。何一つ間違ったことなどなかった。長い全ての苦しみは彼女の歌に向かうためのものだった。彼女が歌っている、今、ここは頂なのだ。俺はそう思った。


 しかし、歌とともに夢へと軽く浮かび上がる時は、あまりにも短かった。しかも、あまりに残酷な音と共に終りを遂げた。ライブハウスという夢の空間は、ギシギシと不快な音を立ててシャッターが開き、現実と接続された。断絶は崩された、一瞬にして、醒めるように。間髪入れずに警察の群れが無粋に、不気味に押し寄せてきた。

 「こちら警察ーっ!!!演奏会中止!!!!」

 怒号と反比例するように彼女は声を失った。彼女は降りた、俺が手を引く逆の方角に。歌姫は歌いきることができなかった、むしろ彼女は敗北を望んだのかもしれない。

 墓に咲いた一輪の美しい花は無残に踏みにじられ、そこから飛び立とうとしていた蝶の開きかけた羽は音も立てずに静かにもげた。




 あとがき

 僕は初めて小説というものを書いた。この小説は『私立探偵濱マイク』というオムニバスドラマの第二話「歌姫」をノベライズ化するつもりで書いた。僕の解釈による「歌姫」である。僕は稚拙な表現力しか持ち合わせていないが、少しでもこの物語の魅力を伝えられたら幸いである。

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