実寸大パッカー車修正

今日、天職を辞めます

僕、正木慎平は2019年11月20日をもって、矢野紙器株式会社から退職しました。上司の山本と同時に退職です。

社員数20人にも満たない零細企業の社員2人が会社を辞めるという取るに足りない出来事ですが、僕にとっては大いに悩んだ上での、人生を左右する決断であり、一つの節目として、何が起き、どう感じ、どのように考えたからこうなったのかを、詳かに書き残さずにはいられないために、今筆をとっています。

矢野紙器株式会社は一般的なA式ダンボール箱の量産が本体にある会社です。
そのうえで僕たち2人が所属したエイブルデザイン事業部は、より発展的に、ダンボールが持つ箱以外の商材の可能性を開拓するべく、製品の開発・営業提案・設計・製造を担ってきました。

有能な同僚は数人居ましたが入れ替わりは激しい環境で、メインメンバーはおおよそ山本と僕の2人であり、ほとんど二人三脚で事業部を回してきた自負があります。

事業内容としては大きく2本の柱がありました。

一つに、ショッピングモールや百貨店等の販促用ディスプレイを中心とした展示物の受注生産。これは自社の技術力の上限を高めますが、フルオーダーメイドが原則なのでルーチン化できる部分が少なく、時間と労力と熟練のみがものを言う、高度な業務内容です。

(上から、実物大のパッカー車のダンボール模型、絵本イベントの販促用ダンボール本棚)

もう一つが、自社開発した遊具のレンタルサービス及びイベント『ダンボールパーク』の企画でした。こちらは、魅力的な遊具を一度作ってしまえば長期にわたって利益を生み出し続けることができ、修理も同じものを作れば良いので、担える人材を育成しやすい点で費用対効果の高い業務です。


つまりエイブルデザイン事業部の基本的な経営戦略は、イベントの企画及びダンボール遊具レンタルの展開によって安定的な利益を確保しつつ、高度なオーダーメイド品に対応することで人材の教育や研究・開発を拡大していく、というモデルだった、ということです。

給料は安かったですが、ものづくりに関わる、ありとあらゆる領域を高濃度で経験出来る環境だったので、個人的には一生続ける仕事、天職だと考えて働いてきました。
ダンボールと、この仕事が好きでした。

ですが、僕はこの仕事を辞めます。しかも山本と同じタイミングで。

きっかけがあります。

4年程前に独立した元事業部長、島津の復職です。

彼は事業部のスタートアップメンバーですが、元来ものづくり畑の人間ではなく、どちらかというと人の懐に飛び込むのが得意な調子の良い営業マンと言った印象の人物です。
部長時代の彼は当時珍しかったダンボールプロダクトの試みによって関西圏でのメディア露出がそこそこあったので、あたかも彼が矢野紙器の技術力を司っていたかのように外部からは映ったかもしれません。自分がエイブルデザイン事業部のプロデュースを行っているというアピールも盛んに行っていたので無理もありません。この時期に矢野紙器を知ってもらったお客様も実際多いです。

しかし、まだまだあらゆることが発展途上だったという時代背景を考慮しても、在籍中に彼が担当したプロダクトデザインにしろ設計図にしろ加工品の精度にしろ、高付加価値での顧客獲得は難しいレベルでした。
正直なところ、製品企画や構造設計や製造技術に適性はない人物だと思いますし、当人もさほどそう言ったクリエイター職や職人仕事に関心がなかったように思います。実際の商品企画や設計に関しては、前任の技術担当者や山本が中心になって成立していました。

ただし島津は愛嬌の良さから、社長には特別に可愛がられていたのだと思います。島津自身が経営者への志があったためか社長とは、雇用者/被雇用者の関係というよりは、会社経営に関する師弟関係という方が適切だったように思います。
彼にはエイブルデザイン事業部の製造物にかかる、全ての最終権限が与えられていました。もちろん価格設定においても。

彼が事業部のトップだった頃は、技術者からの提案や要望はあまり重要視されていなかったように思います。
武器は、ずば抜けた値段の安さ、および安請け合い。細かい仕事をひたすら量産し、ややこしい仕事ほど持ってくる。

売り上げの数字的には大きくなったのかもしれませんが、製造は常にキャパオーバーで疲弊し、技術者が定着せず辞めていく。技術が抜けていくから安い仕事しか取れない。この悪循環が事業部では長らく続きました。

つまり、4年程前までのエイブルデザイン事業部の基本的な戦略は薄利多売でした。僕は大学卒業後、新卒から1年間だけ島津の元で働きましたが、事業部内はあまりの売値の安さと業務量にかなりギスギスしていました。彼の指示下で少なくとも3人の技術者が、2年ももたずに潰れていったことを僕は知っています。


ただ事業部を興すときは、多かれ少なかれそういう時期は避けられないでしょうし、技術の蓄積が少ないのにも関わらず、多くの仕事を任せて頂けたのは、島津のキャラクターがあってのこととしか言い様がないと思っています。
あの時期のあのポジションは、恐らく山本でも僕でも務まらなかった。必要な恨まれ役という訳です。社会人として避けられない人間関係のように思います。その部分で彼を責めるほど、僕も青くはないです。分かっています。


僕たちが問題視しているのは、独立のための辞め方についてです。

加工機械はもちろん技術的なノウハウも持たない島津が、独立後に何を生業にしようとしたのか。

矢野紙器での営業経験や人脈を生かすならば、ダンボール製品の企画職、特に矢野紙器の遊具を用いたイベントの企画営業を事業の中核に据えていたはずです。つまり、元社員であることをつてに、矢野紙器の遊具を安くで仕入れたかったはずなのです。

それを示唆するような動きは、見て取れました。

事業部長として在籍中に、レンタル遊具の発注を頂いていたイベント企画会社様とは、ライバル関係になるイベント業者様に対し、矢野紙器の遊具を一通り、辞める直前に独断で安価に販売していました。
レンタルしている会社よりも、買い取っている会社の方が、低予算でイベントの提案ができるので、『ダンボールパーク』の価格破壊が起こりました。

従来の得意先様には、基本的にはイベント系遊具の販売は行わず、レンタルでの展開を軸に据えることで、お互いの利益を守っていた関係性であったため、この判断は得意先様を裏切る形になり、また矢野紙器にとっても長期的なメリットがないものでした。
正直なところ、明らかな自殺行為と言えます。それが理解できていないわけではなかった思いますし、意図があってのことだと思います。

この件に関しては事実、事業部売り上げの大部分を支えて頂いていたイベント会社様からの受注が島津の退職後からしばらくしてパタリと途絶えてしまいました。
加えて、ライバル会社が遊具を持っていることにお気付きになっていたため、一時期かなり険悪な関係性になっていました。

おそらく島津としては、自身がダンボールイベント企画業をやるうえで競合する、かつての顧客をあらかじめ潰しておき、自分は安価で矢野紙器の遊具を買い取っていこうという目論見があったのでしょう。そのための販売実績作りだったということです。

「言い値で遊具の販売を行わなければ、自前で外部に働きかけて同じ遊具を製造し、矢野紙器よりも安価で営業する、遊具の設計図は君たちだけが知っている訳ではない」という脅しに近い仕方で価格交渉を行われたこともあります。

少なくとも違法にはならないのでしょうし、世の中ではそういう生き方の方が賢いのでしょう。出し抜かれた僕たちにも落ち度はあるでしょう。

この点で思えば、島津の退職後は山本共々、こちらの手を熟知している裏切り者に怯えながら、新規顧客の獲得よりも、既存顧客との信頼回復に心血を注いだ苦しい日々だったように思います。


そして悲劇は、誤解によって加速します。
数字だけでみれば、島津は辞める直前に大量に遊具の販売を行っているので、売り上げが伸びているように見えます。
しかしそれは、レンタル業の展開を潰すことで生まれた瞬間的な利益に過ぎないため、後々に残された僕たちの管理下になる時期で落ち目が来ることが確実でした。
にもかかわらず、その売り上げの低下に対し経営陣が「島津の時代は伸びていたのに」というような大雑把な認識しか形成できていなかったのだと思います。

もしくは島津の営業力に、僕たちの技術力が掛け合わさることで成り立っていたかつての売り上げと業務フローを無視し、あたかも島津を、営業も設計も製造も熟せるオールラウンダーであると評価していたこと、そんな人材が抜けたから売り上げが落ちたこと、そして島津もそれを否定せず自己認識としてきたこと。
この誤解が、悲劇を大きくしました。

正直、島津の動きをどう見るのか、特に製品に対する機密保持契約を結んでいないのか、と経営陣に疑問を呈したことも幾度となくありましたが、島津に対しての経営陣からの信頼は妙に厚く、何故かその精算が行われることがありませんでした。
そのやりとりによって僕たちの、島津や矢野紙器に対しての違和感、利用されているだけだという感覚は日に日に大きくなっていきました。


しかし僕たちも黙ってみていたわけではありません。島津の退職直後から、見積もり体系を徹底的に見直し、彼の時代にはなかった製品や技術の開発にも力を入れ、特に遊具の販路や扱いにおいては、神経質に管理してきました。同様のものを作れると脅されたものの、より魅力的な製品開発に尽力し、遊具の販売には対応しなかったため、おそらく彼が独立後にしたかった動きはあまり出来なかったのだと思います。

真相は僕たちにはわかりません。

しかし、島津はしばらくして、かつて裏切った元部下達に白い目で見られることを承知で復職を希望した。威勢よく立ち回って独立した人間としてはあまりに惨めな有り様ですが、つまりそういうことだと思います。

スキルのない人間がイキがっているとやはり痛い目を見るのだなと思いました。
彼の復職が決定し勤務するようになってからは正直、矢野紙器の製品や機材の全てにおいて手を触れないでほしいな、一度散々汚した場所にヌケヌケと戻ってきて恥ずかしくないのかな、どれほど厚顔無恥なんだろうな、こういうのがイナゴみたいに実ったところに寄生してオイシイ汁を吸おうと集るからせっかく良いモノが出来ても潰れていくのだろうな、なにか文化の衰退の典型を見ているようだな、と思いました。

ところで、経営陣に事実誤認があったにせよ、僕たちの拒絶と反対を押し切ってでも彼を戻して復縁を促し、島津の営業力を味方につけ、かつてのような体制になることを期待するのは、経営戦略上は間違っていなかったのかもしれません。誰がどう見ても復縁はあり得なかったことを除けば。
実情、社長が復職を認めたのはおそらく戦略上の判断というより、多分に情に流されたものだったと思います。可愛がって育ててきた島津が事業に失敗して行き場を失っているのだから、お前たちもここは暖かく迎えてやってくれ、という話なのだと思います。

なぜそのような人物のキャリア回復に協力しなければならないのか。
ぜんぜん社員を見ずに経営してきたのだなと思いました。


そういうわけで僕と山本は、今後それぞれダンボールとは別の道に進むことになりました。
今まで、山本と共に手掛けてきた設計やノウハウの数々をみすみす手放すことは正直すごく悔しいですが、これ以上島津に関わらなければならないのならば離れた方がマシだと二人で熟慮したうえでの判断です。

僕たちにとって矢野紙器は必要ではなかったけれども、島津にとっては何をしても許してもらえる矢野紙器が必要だった、というだけのことのようにも思えます。

いずれにしても、僕たちは雇われですから、会社の方針に歯向かいながら給与を貰い続けるのは筋違いでしょう。

なので今日、僕たちは矢野紙器という小さな会社を辞めます。矢野紙器にとってはかなり大きな損失だと思います。
今まで矢野紙器が提供してきたあらゆる商品は、その多くがこれからロストテクノロジーとなりオーパーツ化していくと予想出来ます。

もしかしたら彼の才能が開花して遜色のない設計や製造が可能なのかもしれませんし、そうなったら上記の内容も単純に僕らのわがままに過ぎないことになるのでしょうが、おそらく島津の手では、僕たちと同水準のクオリティのモノは生み出せないように思います。
それはもしかしたら、段ボール業界の可能性においても大きな損失だったかもしれません。

今まで僕たちを頼ってくださっていたお得意先様には多大なるご不便、ご迷惑をお掛けするかと思います。大変申し訳ありません。僕たちも無念です。

零細メーカーで、中核の技術者二人を敵に回して、何か活路があるのかどうかは甚だ疑問ではありますが、矢野紙器にはまだ直向きに技術を磨いている職人が残ってはいます。皆様には今後とも変わりなく矢野紙器の活躍を見守って頂ければと思います。

正木慎平

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