僕らはみんな生きている(前編)

終電にのせられてきた体を、今度は自宅にまで運ぶ。明かりを着けると、時計は今日が既に15分経過したことを告げていた。

ビクビクする瞼を擦りながら、駅前のコンビニで買ってきた麻婆豆腐丼をレンジに掛ける。
よわよわしくベッドに倒れ、背筋をグッと伸ばす。ワイシャツがじっとりと肌にまとわりつくのが分かった。
疲労を煮詰めた体液がシーツに染み込み、細菌をわらわら繁殖させるイメージ。気持ち悪くなって除菌スプレーに手を伸ばした。その運動を利用してついでにテレビもつける。

テレビは、観るというより眺めるためにこの部屋にある。

頭の中に毒にも薬にもならない無意味な情報群を流し込み、ギトギトに溜まった廃液のような一日の記憶と置換する。みるみるうちに息苦しさが虚脱感で薄められていく。

チン。

レンジが調理を終えた。
濛々と湯気を立てる物体をぐちゃぐちゃに混ぜ、流動食のように胃に流し込む。
麻婆豆腐丼は疲れと飢えに苦しむ者の味方だ、咀嚼のエネルギーを節約しながら養分を摂取できて腹に溜まる。おまけに美味い。

コンビニが配給してくれる味の付いた燃料でなんとか動く機械。
生きている間に何も残せない俺でもこれだけ化学添加物を摂取すれば細胞の一つ一つに防腐処理がなされて死んでも肉体だけは本当に機械みたいに綺麗に残るのかもしれない。
気色悪い妄想を膨らませると、それに圧迫されるように胃が縮み、燃料の喉をくぐり抜けていく速度が落ちた。

明日は休日。の筈だった。

苦役がミスを孕み、ミスが苦役を生む。
先々週から進めていた案件が今日の夕方火を噴いた。

黒い労働は、赤の数字が支配するカレンダーのマス目に雪崩れ込む。青い汗が滲み頭は真っ白になって、視界が歪み嘔吐きが止まらなくなった。
一瞬でもその惨劇から離れたくて終電に逃げ込んだ、だからひとまず家にいる。

明日、朝から出なければならない……。

社内外から押し寄せる圧力に擦り潰されに行くのだ。したがって、起床時間まであと6時間しかないということになる。

次はシャワー浴びようか、オナニーしようか、数秒フリーズしたかのように考える。ズボンとパンツを下ろし、ノートパソコンの電源を着けた。
下半身を露出させた俺と数メートルの距離に居る隣人を仕切る壁は極限まで薄いので、イヤホンは欠かせない。

光を閉ざした独り身の臭気が満ちるワンルームに、グローバリズムを体現するかのような、白と黄色と、時々黒の肉体がうねうねと蠢く窓が開けた。

海を越え、法を越え、どこの誰かも知らない雄と雌の体温の衝突する映像が性液と共にドボドボと漏洩してくるというのに、液晶を一枚挟んだ実生活に似た場面はない。さながら動物園で遥か彼方に生息するサルの習性を観察している気分だ。遺伝子の構造が似通っているのだとしても、しかしその生態系は似ても似つかない。

画面上の獣供に感化された下半身が発する衝動と、睡眠時間を演算する脳細胞がせめぎ合い、スピーディにベターな映像を手繰り寄せる。
俺はその解答を信じガラス越しの光景を凝視しながら一心不乱に局部をしごいてティッシュペーパーに射精した。

この一瞬だけが荒んだ生活において自身のケアと呼べるものだ。
他者からの強制でも、個体の生存維持のためでもない、自分の自由意志に基づいた行動。
この習慣からは、もはや性欲であるとか色欲であるとかそういうムクムクと内から湧き上がってくるような欲動は剥がれ、その瞬間だけが、自分が生き物としてマトモに機能していることを確認できる切実な時間だった。

化膿した痛ましい精神から瀉血するように射精する。
それは、ほとんど安定剤のような効果を日常にもたらしている。読んで字の如く自慰なのだ。

ティッシュペーパーに受精した俺の精液は、便器の中の大海原に放たれる。俺の生命の息吹が荒波に飲まれて流されていく姿を眺る。

消えていく。消えていく。

ふと自分の将来について考えて、やるせなくなり考えるのを止めた。パンツだけ履いてベッドに腰掛け、異常な冷静さを取り戻す。


テレビを着けっぱなしだったことに気がついた。今頭ではシャワーを浴びているつもりだが体が動かない。
野球中継か何かが随分と延びたのだろう。この時間にアイドルまがいの女子アナがたどたどしく読み上げる一日のハイライトに耳を傾けている。

最近世間を騒がせている連続強姦事件の新しいニュースだ。いよいよ死人が出たらしい。

手口は共通。
バンで近づき、背後から首元にスタンガンを突きつけ怯んだ隙に車内に押し込む。
後部に準備されたプラスチックの結束紐を枷にして素早く手足の自由を奪い、ガムテープで口と目を塞ぐ。
そして耳元でカッターナイフの刃を出す音を聞かせて首筋に沿わせて脅し、動きを止める。
完全に抵抗力が削がれたことを確認すると、口だけを解放し、鼻をつまんで、キツい酒を流し込む。証言では、恐らくスピリタス。
人目につかない港や山道へ移動し、衣服を切り刻んで車内で行為に至り、その場に置き捨てていく。

その周到な悪質さで充分にセンセーショナルな事件だが、その被害者の顔ぶれによってインパクトは倍増していた。売り出し中のグラビアアイドルや、若者の間で人気の読者モデルを狙った犯行だったからだ。
そして今回死んだのは、ドラマや映画のヒロインとして大人気の若手女優、Sだった。
人気のない港で発見された。急性アルコール中毒、自らの吐瀉物で気道が塞がったことによる窒息死。

名立たる芸能人や文化人の奥歯を噛み締めるようなコメントが次々と紹介されていた。

その犯行の身勝手さと被害者の救われなさに心が傷んだ。しかしそれ以上に、マスメディアの喧騒に包まれながら不正に快楽に耽る人間の存在に強い不快感と怒りを覚えた。

司会者はお悔やみの声を重く受け止めたように神妙な面持ちを保った。言葉を慎重に選び低いトーン。視聴者の注目を十分に引きつける。
そして今度は切札と言わんばかりに語気を強めた。

「そしてここで重要なお知らせがあります。我が局の調査力を総動員し、独自の情報網から、容疑者と思われる男が写りこんだ監視カメラの映像を入手しました。視聴者の皆様。我々はこの凶悪犯を許すわけにはいけません!」

陰惨な事件を、まるで猛獣ショーかのように盛り立てる番組の下衆な構成に嫌気が指したのも束の間、不鮮明ながら映し出された男の姿に俺は愕然とした。

N?!似てる…...。でもそんなことは......。

Nは大学生時代、最も親しい友人だった。
凄まじい有能さ。Nは端的に言うなれば、カリスマとか風雲児だとかいう言葉をそのまま形にしたような男だった。
こんなタイミングだが、とにかくNの話をさせてほしい。凄い奴だったんだ。

(中編へ続く)

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