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新実在論とマルクス・ガブリエル ─世界の不在と「事実存在」の問題─


マルクス・ガブリエルが現在論じている「新実在論」がどのような思想展開として位置づけられ るのかを検討し、そのうえで彼の「新実在論」において展開される「事実存在〔実存〕Existenz」概念を明らかにしたい。

彼自身の研究はそもそもシェリング後期哲学の「神話の哲学」研究をその基礎としているが、 それだけにとどまらず認識論や懐疑主義、分析哲学までその幅を広げている。「新実在論」とは彼が現在中心的に 論じているテーマのひとつであり、本稿では特にそこで重要な概念として登場する「事実存在」について詳しく論 じることにする。「新実在論」とは、彼によれば「ポストモダン以降」の時代における新しい哲学的展開だとされ るが、しかしその内実は論者によってさまざまであり統一的な見解があるわけではない 。しかし少なくとも、彼 の主張する「新実在論」は、彼自身のシェリング研究の延長線上にあるものと理解できる。彼の問題意識は「世界 Welt」と「事実存在 Existenz」をめぐる問いに収斂される。これはまさに彼がシェリング研究を通じてつかんだ 問いであり、その全面的な展開が、現在の彼の議論に繋がっていると考えられる。 本論文ではまず彼のシェリング理解について検討し、そこで提示される「世界とは何であるか?」という問いが いかなる意味を持つのかを明らかにする。

さらに、彼の新しい理論展開を示した『なぜ世界は存在しないのか Warum es die Welt nicht gibt 』(以下『世界』)においてどのようにその問いが「新実在論」と結びつくのかを見る。 そのうえで、『新実在論 Der Neue Realismus 』所収の彼の論文である「実在論的に考えられた事実存在」(以下『事 実存在論文』)において、とりわけ「事実存在」という概念によって特徴付けられる彼の「新実在論」の構想がど のような哲学的プロジェクトであるのかを明らかにしたい。

1.「世界」という問題設定
ガブリエルは『神話における人間 Der Mensch im Mythos』(以下『神話』)において、後期シェリングの「神話の哲学」を中心に議論を展開している。その序論でまっさきに挙げられる問いは、「世界とは何であるか?」 [DMIM:1]という問いである。この問い自体はシェリングの初期思想から一貫しており、西洋形而上学へのシェリングの取り組み(あるいは対決)の原動力となった、しかも今日にも通じる問いだと捉えられている。

シェリングがその〔思想の〕開始初期から集中して取り組み、彼を西洋形而上学の伝統全体への絶え間ない取 り組みへと駆り立てた問いは、〔...〕従前どおり非常にアクチュアルである。
もちろん、ガブリエルが『神話』において展開する議論は、シェリングの「神話の哲学」の解釈を目的としている から、その文脈から切り離して議論することは適切ではない。しかしながら、「世界とは何であるか?」という問 いをシェリング哲学の課題として取り上げ、それが今日的意義のあるものだと示す企ては、既に彼のシェリング解 釈に内在していたことがここで確認できることは重要である。というのも、この「世界」を巡る問いは『神話』以外の著書でたびたびくり返されることになり、明らかにガブリエルの思想の中心問題となっているからである 3。 それがとりわけ『神話』においては、「神話の哲学」解釈によって「西洋形而上学の古典的問題に対するシェリン グの答えを詳細に追及すること」によって取り組まれているのである。 それでは、ここで言われる「西洋形而上学の古典的問題」とは何を意味しているのだろうか?それはもちろん「世界とは何であるか?」という問いに表われているが、ガブリエルは、それが形而上学において問われる際には「存在者 Seiende の全体への(換言すれば世界そのものへの)形而上学的な問い」であると規定する。 すなわち、西洋形而上学における「世界」とは、厳密には「存在者の全体」としての「世界そのもの」を意味して おり、西洋形而上学はそうした世界を問題としてきたということが指摘されている。それゆえ、「世界とは何であ るか?」という問いに取り組むことで、シェリングはこうしたギリシア以来の西洋形而上学の伝統的な「世界」理解を再検討することになり、ガブリエルはこの点にヘーゲルとの共通性を見出している 。 しかしながら、ここでは同時にヘーゲルとの差異も指摘される。それは、シェリングの後期哲学に見られる「絶 対的観念論の保留」という立場である。ガブリエルは絶対的観念論の特徴を、存在者の全体を「総体 性」として把握する点に見ており、絶対的観念論に距離を置くシェリングの立場を次のように指摘する。 シェリングはヘーゲルとは違って、理性の二重化された外部を考慮に入れている。まず一方で、世界の事実存在という純粋事実 Faktum は存在の概念へは還元できない。理性についての事実存在は諸個別物あるいはわ在という純粋事実 Faktum は存在の概念へは還元できない。理性についての事実存在は諸個別物あるいはわれわれのような理性的存在者 Wesen についての事実存在と同様に、概念には還元できない。他方で、理性の 事実存在を自らにとって透けて見えるようにすることは理性の歴史に属しており、それはカントの理性批判に おいて模範的に遂行された。その際に理性は精神が自身の事実存在を超越 Transzendenz することを発見し、 そのことは、存在 Sein を超えて、すなわち古典的意味において超越的である絶対的精神への展望を開くので ある。

ここでは、二つの意味で「事実存在」が理性の外部で設定されることになる。つまり、一つ目の意味では、事実存ここでは、二つの意味で「事実存在」が理性の外部で設定されることになる。つまり、一つ目の意味では、事実存在が「概念へと還元不可能であること」により理性の外部に置かれている。この場合は事実存在が概念へと還元で在が「概念へと還元不可能であること」により理性の外部に置かれている。この場合は事実存在が概念へと還元できないことから、その把握不可能性を「外部」としている。二つ目の意味では、理性の歴史においても、精神自身きないことから、その把握不可能性を「外部」としている。二つ目の意味では、理性の歴史においても、精神自身が自己の事実存在を超越することにより、理性の外部へと置かれている。この場合は事実存在を「理性の歴史」にが自己の事実存在を超越することにより、理性の外部へと置かれている。この場合は事実存在を「理性の歴史」において把握しようとするが、それが精神の自己超越の過程においては、既に超越されてしまったものとしか示せなおいて把握しようとするが、それが精神の自己超越の過程においては、既に超越されてしまったものとしか示せないために、もはや「事実存在」ではなくなってしまっていることを「外部」としている。いずれにせよ、ここではいために、もはや「事実存在」ではなくなってしまっていることを「外部」としている。いずれにせよ、ここでは理性にとって事実存在はつねに「外部」であり、把握することはできない。つまり理性の「限界」を理性の外部に理性にとって事実存在はつねに「外部」であり、把握することはできない。つまり理性の「限界」を理性の外部に設定している。この点でまさにシェリングはヘーゲルと立場を異にする。設定している。この点でまさにシェリングはヘーゲルと立場を異にする。これによってシェリングの後期哲学は、絶対的なものについての別の偉大な哲学、ヘーゲル哲学と対決する ことになる。ヘーゲル哲学は、無限なものあるいは絶対的なものを次のようなものとして理解する。つまり、 もはや限界を外へともたずに自らを自ら自身のうちで差異化し、それによって確証されいわばそのように自身 の下へ引き返すものである。

これによってシェリングの後期哲学は、絶対的なものについての別の偉大な哲学、ヘーゲル哲学と対決する ことになる。ヘーゲル哲学は、無限なものあるいは絶対的なものを次のようなものとして理解する。つまり、 もはや限界を外へともたずに自らを自ら自身のうちで差異化し、それによって確証されいわばそのように自身 の下へ引き返すものである。[DMIM:2]シェリングとヘーゲルの係争点は、まさに「限界」の設定の仕方に由来している。シェリングはあくまで理性の外シェリングとヘーゲルの係争点は、まさに「限界」の設定の仕方に由来している。シェリングはあくまで理性の外部に「限界」を設定しており、ヘーゲルはその限界が絶対的なものによって乗り越えられるものと考えている。 「ヘーゲルが理性のどんな限界も止揚し、絶対的なものを、自らを自ら自身と媒介している総体性として叙述しよ うと試みた一方で、後期シェリングは、観念論的理性の流域 Einzugsgebiet が再び限界付けられる必要があると考 えた」のである。

こうした「限界」を巡る問題は、そもそもカントの理性批判に対するそれぞれのリ アクションと考えることができる。というのも、「理性の限界を内側から線引きするという試みは、もちろん既に カントが披露した」からである。しかしながらガブリエルはその試みに問題を見て取る。というの もその試みは、理性そのものを審議にかけ揺さぶるものではなく、「理性の暴走を阻止する」ために部に「限界」を設定しており、ヘーゲルはその限界が絶対的なものによって乗り越えられるものと考えている。 「ヘーゲルが理性のどんな限界も止揚し、絶対的なものを、自らを自ら自身と媒介している総体性として叙述しよ うと試みた一方で、後期シェリングは、観念論的理性の流域 Einzugsgebiet が再び限界付けられる必要があると考 えた」のである。こうした「限界」を巡る問題は、そもそもカントの理性批判に対するそれぞれのリ アクションと考えることができる。というのも、「理性の限界を内側から線引きするという試みは、もちろん既に カントが披露した」からである。

しかしながらガブリエルはその試みに問題を見て取る。というの もその試みは、理性そのものを審議にかけ揺さぶるものではなく、「理性の暴走を阻止する」ために 新実在論とマルクス・ガブリエル─世界の不在と「事実存在」の問題─行われたからである。このことによってむしろ、「理性にとって原理的には決して意のままにされ得ないもの」 について理性の立場から積極的に判断することができるようになる。つまりあくまで理性による把行われたからである。このことによってむしろ、「理性にとって原理的には決して意のままにされ得ないもの」 について理性の立場から積極的に判断することができるようになる。つまりあくまで理性による把握の立場は揺るがないのである。 もちろん、シェリングも理性そのものを否定しているのではない。というのも、あくまで「理性の限界を内側か ら線引きする」ことはカントと同時にシェリングもまた試みているからである。しかしながらその試みは、「理性 は根本的に他のもの Anderes に依存せざるを得ない」という主張に繋がっている。つまり先ほども 確認したように、理性はつねに自身の「外部」を残しており、まさにそのことによって理性は自身の限界を線引き しているのである。ここで決定的に重要なのは、この理性の外部、すなわち「他のもの〔他者〕」が残されること である。ガブリエルによれば、この他のものこそ、「(いまだ)完全には、絶対的で思弁的な主体性の自己関係へと 埋没して消えることのない在るもの etwas」の余地を理性のうちに残すものなのである。つまりシェリングがカン トやヘーゲルに対して取っている距離は、理性による把握の立場や、絶対的観念論の立場との距離を表しており、 その際に重要なのは、理性そのものをその外部との関係から問い直す視点をシェリングが提供するということであ る 。『神話』においてそれは「神話」を巡る問題において展開される。しかし『神話』以降の議論においては、 問いそのものは変わらず「世界」に向けられているが、理性とその外部の問題は存在論的な「事実存在」概念にお いて検討されることになる。握の立場は揺るがないのである。 もちろん、シェリングも理性そのものを否定しているのではない。というのも、あくまで「理性の限界を内側か ら線引きする」ことはカントと同時にシェリングもまた試みているからである。しかしながらその試みは、「理性 は根本的に他のもの Anderes に依存せざるを得ない」という主張に繋がっている。つまり先ほども 確認したように、理性はつねに自身の「外部」を残しており、まさにそのことによって理性は自身の限界を線引き しているのである。ここで決定的に重要なのは、この理性の外部、すなわち「他のもの〔他者〕」が残されること である。ガブリエルによれば、この他のものこそ、「(いまだ)完全には、絶対的で思弁的な主体性の自己関係へと 埋没して消えることのない在るもの etwas」の余地を理性のうちに残すものなのである。つまりシェリングがカン トやヘーゲルに対して取っている距離は、理性による把握の立場や、絶対的観念論の立場との距離を表しており、 その際に重要なのは、理性そのものをその外部との関係から問い直す視点をシェリングが提供するということであ る 。『神話』においてそれは「神話」を巡る問題において展開される。しかし『神話』以降の議論においては、 問いそのものは変わらず「世界」に向けられているが、理性とその外部の問題は存在論的な「事実存在」概念にお いて検討されることになる。



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