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器用貧乏な人以外は見ないでください。器用貧乏な人、共感できると思います。

「あなたのアピールポイントは何ですか?」
こう問われたら、何と答えるだろうか。私は答えられない。
この点は誰にも負けない!という点が私には無いと、自己評価しているからだ。

私は、何かに秀でている人を心から尊敬する。
ひいては、
とある人「俺って、○○に秀でてね?なあ?そう思うよな?これなら絶対に一番になれるわ」
周りの人「、、、、、、そうだね。」
とある人「いやー参ったわ、世界が俺を待っているわ。ちょっと行ってくるわ」
周りの人「、、、、、、」
と勘違いしちゃっている上記のとある人も、皮肉なしに尊敬の対象である。その勘違いがエネルギー源となり、本当に一番になることもあるだろうし、俯瞰をせずに勘違いしちゃうことも人生を幸せに生きるための方法のひとつだと思うからだ。

そんな何もない自分に、SNSではどんな名前を付けようかと、悩んだ。
そこでいろいろ模索しているときに出会ったのが、むささびという動物である。

むささびは、木登り、空を飛ぶ、穴を掘る、川泳ぎ、地面を走るという5つのことがいずれもできる。しかしどれも、猿、鳥、もぐら、魚、人間には敵わない。だから、器用貧乏の言い換えとして、「鼯鼠の五技」という言葉があるのだそうだ。(鼯鼠とはむささびのこと)

ああこれ私だ。そう思ったのである。

小学校から野球を始めて、小、中といろいろなポジションを経験するも、どこのポジションでもそれなりに形にはなるため自分の適性を見抜けないまま高校に進学し、高校でもなおピッチャー以外の全ポジションをやるという、たらいまわし的な扱いを受け、結局どのポジションでも大成せず、「誰か怪我したらお前しかいない。お前がチームには必要だ」などという監督からの苦し紛れのモチベ向上セリフを糧に最後まで地獄の高校野球をやりぬく羽目になったのは私のことである。

「えー歌うまーい」「おー絵も描けるのか」「勉強教えてくれよ」「ほんと、なんでもできるな」などという言葉を周囲の人たちからかけてもらい、その一時は気分が良くなって調子に乗るものの、そういった状況が慢性化し冷静になると、自分よりもすごい人はどの分野にもいて、自分の能力はどれも自慢の域を超えないのだなということに気づき、勝手に空虚になっている最中迎えた大学受験で見事にむささびらしく中途半端な点数をたたき出し、浪人する羽目になったのは何を隠そう私のことである。

商売ができるレベルでは到底ない。人に発信するにも何らかの工夫を追加しないとおこがましい。カラオケに行ったら褒められる、未経験のスポーツを始めたら飲み込みが早いと褒められる、バイトを始めたら覚えが早いと褒められる、嬉しいことは嬉しいのだが、その程度なのである。次につながったことなど、一度もない。

もちろん、「それで十分いいじゃないか、腹立つな、俺なんかなあ、俺なんか、、、」という意見もあるだろう。
おっしゃる通りである。私は自分のことを不幸者だとか、生まれてこなきゃよかっただとか、思ったことはない。ただ、だからこそ問題なのである。それなりに満たされているからこそ、「まあ、いいか」と8割くらいのレベルで成長に興味がなくなるのである。

そういった意味では、餓えている人は何かに秀でる才能があると思う。そんな人は、今はどうしようもない状況だとしても、反骨心でのし上がって、私のような人間が到底味わうことのできないような人生を味わうことができるかもしれない。

きこえてくるきこえてくる。「お前だってそうだろ!むしろお前要領いいんだろ?アドバンテージもらってんじゃねえか!俺よりも簡単に頂点にたどり着けるんじゃねえのかよ!俺なんかなあ、俺なんか、、、」
ほんとに、おっしゃる通りである。ただ、そもそも私には「一番になりたい」という思いが、他人よりも小さいように感じる。それはさっきも言った通り、生活習慣病のようなもので、何もかもがそれなりだからこそ、エネルギーが湧いてこないのだ。

つまり私は怠けているのである。この何にも秀でることのできない自分を、能力や性格のせいにして、自分から秀でることをしていないのである。そしてそもそも、秀でようにもどうしようもないくらいに秀でることに興味がないのだろう。

「秀でなくてもいいならいいじゃねえか」
そうではないのである。いろいろな場面で、「ああ、自分には秀でている部分がないなあ」と思い知らされ、その都度落ち込むのである。そしてその都度、何か自分にもないか、と探し回るのだが、そんな中、またちょっと満たされるようなイベントが起きて、気が付けば、秀でている部分がないと嘆いていたことは棚の上に置かれているのである。つまり、ちゃんと落ち込むことは落ち込むのである。いやになる時はいやになるのである。それも厄介なことに、一時的に。

そういった意味では、励ますつもりではないが、何の特技もなければ見た目も最悪でどうしようもないという人には、無限大の可能性があると思う。その溜まりに溜まったやり切れない思いは、自分自身を動かす大きな原動力になり得る。私にはそれがない。ただ、しんどい人生ではあるだろうから、代わりたいかと聞かれたらノーである。しかし尊敬はするし、うらやましくもある。なんせ私の未来はたかが知れているからである。どうせそれなりである。

器用貧乏という遺伝子を引き当て、何でもできていいなと思われているような人間にも、そいつなりの悩みがあるのである。これを読んでいるのは器用貧乏な人だけであろうから、共感の嵐ではなかっただろうか。

もし、器用貧乏でないが未だ何者にもなれていない人が読んでいたとしたら、こう伝えたい。私はあなたを心から尊敬している。


         ゴソノギ__国立医学生の日常

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