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「がんばる」を考える

日本で学術書の翻訳会社を経営をしているフランス人との対話で、とても盛り上がった話を綴っておくことにする。
「がんばる」という日本語は、フランス語でどういう表現で訳すとよいのかが、とても苦労しているという話だ。

人を励ますという意味合い以上に、彼が感じた「がんばる」という言葉に漂う「日本人独特の空気」には、大いに疑問を感じており、それはボクら日本人が忘れかけていた「ある事」に一石を投じてくれている気がするんだ。


■頑張るって…ナニ?

彼の仕事上、適切な訳し方が求められるため、日本人が現在一般的に使われている「がんばる」の意味合いの理解に難航していた。

励ましや自分を鼓舞する時に使われる言葉なのは理解できるよ。
フランスにも、気持ちを奮い立たせたり、人を励ます言葉はあるからね。
だけど、私が感じ取っている違和感は、「がんばる」という言葉の裏に見え隠れする日本人が造り出している空気なんだ。

美学の押し付けが怖い

この言葉が使われるシチュエーションから、単なる人を応援を意味するだけではなく、自分も他人も精神的に追い込み過ぎていないか…その追い込むことこそが「美学」になっていないかという事に、彼の胸がザワつくらしい。

「がんばる」ことに「楽しさ」を感じられることが一切ないんだよね。

個人的な肉体や精神を痛めつけるだけではなく、場合によっては、周りの家族との大切な時間も犠牲にしてまで、もがき苦しんで「がんばらなければならない」という過剰なストイックさに、美しさを感じない。

それどころか、そうしなければならないという同調圧力を感じる場面を目の当たりにしてしまうと、「楽しむ」要素を抜きにした「がんばる」と概念がフランスには存在しないから、フランス語に訳しにくいらしい。

このことを象徴することがある。
彼がずっと不思議に思い続けている事象が、次のことだった。 

■なぜ負けて泣くの?

「日本代表選手が、gameに負けて泣く光景をよく見るが…あれがものすごく不思議!…gameに負けて、なぜ泣くの?フランス人は泣かないよ…」

その違和感の真意を掘り下げると、かなり興味深い話となる。

フランスでは、みんな好きなことは自由に始める。
それで楽しければ、人にどう思われようが、時には失笑を買うことであっても、自分がやりたいことは、なりふり構わず一心不乱にやる。

そして、みんな良い具合に、それぞれ自分を「天才」と思うようになる。

だからフィールドやコートには、自分が楽しいと思えることを追求した先にある、お互いの「天才」を引き出してきた者しかいない。

それがプロではなく、学生スポーツでもそうだ。

試合で負けることは確かに残念だとしても、その時は「今日は相手の天才が上回った」と思うから相手を讃える。そして、こちらが負けなければ「今日は自分の天才が上回って」いたと素直に喜ぶ。
だからこそお互い、もっとスポーツを楽しむことがてきる。

彼が言いたいのは「楽しいことを忘れて、それほど自分を追い込む使命感に、幸せなことがあるのか?」ということだ。
スポーツは、楽しむためにあるもので、闘うためにあるものではない。


■仕事も同じこと

こうしたことは、一般生活者が向き合う「仕事」でも同じことが言えるのかもしれない。

日本人は、仕事を楽しむ人も少ない。
自分だけではなく自分の身近な人にも何かしらの犠牲を払って達成するものがあったとして…それは本当に幸せな事なんだろうか?

事が上手く運ばなかったら「がんばりが足りなかった」と、さらに何かしらの犠牲を払いながら、自他共に追い込む空気に身を置くのは、常軌を逸した「戦場」での異様な空気感と変わらない。

彼と話し合っていたことは、とても本質的なことだった。


■自分らしさを相互に讃え合う

スポーツもビジネスも…戦争ではない。
楽しんでこそ、ファンも生まれるし、本当に楽しんでいるからこそ「努力」を惜しまなくなる。

だからこそ、何事も本気で楽しんでいる人は「天才」ということになる。

日本の「がんばる」は、「楽しむことを前提とした上での努力」とは、少し違うね。常に何かしらの犠牲を伴ってこそという歪んだ美学を感じる。

確かにそれは否定できない。

事実、職場でも部活でも「楽しい要素」が見え隠れすると、「ふざけていると思われるんじゃないか」と、多くの日本人が罪悪感を持ってしまう。
しかも、子供の頃から、勉強もスポーツも、楽しそうな笑顔を見せていると「ふざけいるんじゃありません」と躾けられる場面もよくある。

つまり、彼が「がんばる」という言葉を訳しづらいのは、日本に蔓延るその「空気感」の部分を上手く表現できないらしい。
日本人は、励ましたいのか、抑圧したいのか…一体どっちなんだろう?と。

確かに、その空気感では、ますます個のアイデンティティは見失いやすい。
いわゆる「自分らしさ」の片鱗すら見えてこなくなったりもする。

フランスでは、自分らしく「どうしたいのか」という…アイデンティティが明確な人は周りに認められるし、逆に相互のリスペクトも生まれる。
彼が訓えてくれたのはそういうことだ。

相手を打ち負かすことがスポーツではない。
格闘技は別にして、本気で磨いてきたお互いのプレーを楽しむことだ。

ライバルを打ち負かして生き残るのがビジネスではない。
顧客に支持され続ける価値づくりを、自分らしさを活かして楽しむことだ。


■天才は誰でもなれる

彼のアプローチに便乗してみよう。
自分は自分らしく「どうなるんだ」という決断できる人ならば、誰でも「天才」になれるということになる。

逆説的に捉えると、「自分が天才だなんてとんでもない」と謙遜したまま…自分はどうなりたいと思い描けない人は、一生「凡才」のままということになる。

「自分はこれでイイんです」ではなく、「自分はこうしたいのです」ということであれば、誰でも「天才」になれる要素を持っている。
つまり、彼の話から推察すると…「天才」は生まれるのではなく、自らの歩みによって「創る」ものという感覚なんだろう。

追い込まれた上に心が折れて、自分らしさも自信も見失い「自分はこれでいいんです」ということになると、それでも過剰な「がんばり」を虐げられるのは、どんどん自らの可能性に蓋をしてしまうこともある。

燃え尽き症候群を産み出しやすいこの国の象徴として、「がんばる」の訳し方に困惑するフランス人に気づかされた。

天才になるのも手段に過ぎない

とにかく、「天才」になるのはあくまでも「手段」で良いんだ。
人生の目的は、何かの「天才」になったとしても、自分と自分の周りの幸せを自ら創れるようになることだ。

国に関係なく、人として生まれてきたのならそうあるべきと考えると、フランス人の彼の違和感には、多いいに共感できるものがある。
要は、彼の話を、文化や風土の違いということで簡単に片付けてしまうのは少し素直じゃない気がするんだよね。

そう言えば、ボクが向き合う個人事業主の中に、80歳を超えてもなお、価値づくりに挑み続けている男性…その方の言葉もとても象徴的。

本気で仕事を楽しんでいるから、お客様に喜ばれるための努力は惜しまない…もちろん、この歳だから、誰にも「がんばれ」と命令されることもないから、無理なく自分のペースで仕事に専念できる。

一番嬉しいのは、納品した先のお客様に「私たちのためにこんなにがんばっていただいて、ありがとうございます!」と言われる瞬間なんですわ。

命令されたり、自分を追い込む「がんばり」ではなく、周りに素適な価値として認められるところに到達することで、当事者同士が笑顔となる。
そういうところで、初めて「がんばった」が和やかに生まれる。

この感覚は好きだなぁ。
がんばりのプロセスとアプローチが、とても自然体だからね。

なんだ!
文化や風土の違いってわけでもなく、素適な人生の先輩はこの国にもいるじゃないか!


■本気で楽しんでみようか!

さあ…そろそろこの国も、本気で楽しむことを失った「がんばる」より、本気で楽しめることをしてみないか!
もちろん、ここで大切なのは、本気で楽しめるものとは何一つ楽ではない。
でも、本気で楽しめるから、長く続けられる。

自分はどうなる!と決めて、今日から意図を働かせてみよう!
意図を働かせたのなら、もう今日から行動に移しているはず。

「明日からやるよ。」という言う人で、始めた人に一度も出逢ったことがないんだけど…もしみんなが何かしらの「天才」になったら、そりゃ~この国は、もっともっと楽しくなるよね?

一つ言えるのは「自分はどうする」と「決めることから逃げないこと」だ。

逃げてばかりの大人の背中もまた、次世代の子供達は、ちゃんと見抜くよ。
子供達は、大人のウソを見抜く天才だしね…。

ボクらがその一歩を踏み出してもいないのに、次世代に「がんばれ」と言うほうが…よっぽど無責任な話だ。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
躍心JAPAN団長
河合 義徳

#躍心JAPAN
#勝ち組より価値組
#がんばり方を間違えない
#本気で楽しんで生きる
#この国の常識を疑ってみる

<追記>
コラム掲載後に、アスリートの方が表現されていた「周りの人の声掛け」について、インタビューに応えておられる記事も本質的なところでリンクしているので、参照記事として追記します。

 

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