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美しさにこだわるロックな仕事観

  • 「なんとかしたい」を「どうやる」に変える

  • 「いつか」を「いまから」に変える

  • 「不安や願望」を「勇気や実現」に変える

「仕事をする」ということは、上記の三つのような状態を未来のあたりまえに変えて、生活者の暮らしに、素適な変容をもたらす「価値を創る」ことだと、ボクらは考えている。
また、そうした仕事にボクらが関わるからには、その価値創造のプロセスとアウトプットは、顧客と自分自身の「民度」が上がる行動環境となるものにしたい。(誰の民度も上がらない事案には、そもそも関心が湧かない。)

そのため、顧客だけではなく自分達の未来も活きる事に本気で仕えるもの…それがボクらが考える「仕事をする」ということだ。

それを唱え続けていたら…

ボクが対話し続けて価値共創する事業者は、「相対的価値」よりも、生活者一人ひとりのオンリーワンな「絶対的価値」を創り出す人が増えた。
当然のように、そうした「価値」は、駆け引きなしで認められるため、また新たな「仕事」が求められるようになっている。

そのループを本気で楽しんでいる人は「楽」な事は何一つしていない。
楽な事など何一つ無いのに、本気で「楽しい」から続けられる。

こうした本質的であたりまえの事というのは、人にはとても伝わりにくいし、地味で草の根的なことも多いから、着目もされにくい。
特段カッコいいものでもないし、場合によっては「それは理想論でしょ?」と相手にされないこともある。
それでもボクらは、笑顔で「キレイゴト上等」を掲げて、本気で楽しく実践し続ける…「ロックな仕事観」をしたためておくことにする。

そもそも、何故そんな「楽」ではないことを笑顔でやり続けられるのか?
そう気持ち悪がられても、真面目にそれが「楽しい」からだ。
多くの人が「真面目の意味」そのものを誤解していることについては、こちらのコラムに記載済み。

“■「真面目」の本来の意味”


■ロックには勇気が要る

「キレイゴト上等」は、なかなかロックな生きざまだとは思うんだよね。
どうも世間では、ロックは「汚くて怖いモノ」というイメージが根強い。

高学歴や高収入を伴う経済発展こそが美徳として、自分を見失い辛いことを我慢して働く人達を上手く利用している連中からは「メンドクサイ奴ら」と敬遠されているしね…。

それでも、文句も言わずに従順に働いて、会社の利益最適化に貢献する者だけを「優等生」と決めつける連中のほうが、ボクらは怖さを感じる。

自分はどうありたいのか、顧客も含めて仕入先にもスタッフにも「この仕事が、なぜ自分達である必要か」の意味を自分達で見出し、そのために自分は何をしたいのかを考え抜くこと。

それを実践に移す勇気こそ、ロックな姿勢として頷けるものだ。

ここで、先に述べた「顧客だけではなく『自分達の未来も活きる事に仕える』なんて無理な話だろ…という人も必ず出てくる。

なぜそんな残念な固定観念が植え付けられているのか…
今は小中学校の頃から「働くとはどういうことか」の本質的なことを、子供たちに「感じてもらう機会」は圧倒的に少ないまま、育っているからだ。

定義づけとして、「働くとは何か」の正解を求めるのではなく、教師も親も社会で働く大人達も、子供達と対等に対話することによって、働くことを感じる機会が少なすぎる。
生活とは、「自分を活かして生きること」という感覚の大人が少なすぎるのが、その証だ。

関心ある方は、多くの反響をいただいた以下のコラムもぜひ!


■美しくなければロックではない

「オンリーワン」は、「どれだけ生き延びるか」という比較優位性ばかりを気にしている企業側にあるものではない。
先にも述べたように、それは「どう生きたいのか?」という生活者側の「絶対的価値」にあるもので、それが何かを探求して創り出すことが、結果として「事業継続性」にもつながる。
それこそが、ボクらのロック的な仕事観の本質なんだよね。

それは、何も起業しなくても、今の勤め先でできることだってある。
ただし、今勤めている企業の「文化」が「美しい」ことが前提だ。

そして、企業文化は、外部からも「美しい」と感じられるものでなければ、価値創造力は高まらない。
美しくないモノには、安全性の担保を感じない。

だから、社内で働く人たちも、みんな心に鎧を纏ったり、ガードを上げながら本音を言わずに人と関わるか…自分を偽って生きる。
もしくは、ガードを上げなくても良いように、やたらと人のマウントを取りたがる。

それは、歪んだ企業文化を助長させることを意味し、生活者の安全性を脅かす企業不祥事や不正が後を絶たない事と、深い相関性を感じる。

次世代の子供達を見据えた「生きるチカラが育つ土壌づくり」に向け、ボクら世代ができることは、ただ一つ。
ステイタスや見栄えより「美しい振る舞い・所作」を背中で魅せることだ。


■美しい生きざまとは何か?

そもそも自分達が感じる「美しさ」って何だろう?
そして、そのためには自分はどうありたいんだろう?

日々の業務の中で、それを当事者で問い合う。
それを本気で問い合うことができる人が、「仲間」というんだろうな。
そうした仲間と共に歩む大人の姿を魅せるのことが、次世代を築く子供達への責任でもある。

帰宅途中に、職場での不満や、スタッフへの物足りなさへの毒を吐いているだけなんて、ロックでもなんでもない。
愚痴は言わねど、ひたすら我慢している姿も、決して美しい姿ではない。

強い人が勝者でもなければ、弱い人が敗者でもない。
人と比べて優れている人が、絶対でもない。

美しい人が未来を創るんだよ。
美しくないと未来を壊すんだ。

そういう美意識は、日々の働きの中に宿るもの。
そういう美意識は、日々の暮らしの中に宿るもの。

それは、未来の景色を描くチカラにもつながる。
この仕事はなぜ自分である必要があるのかを考え抜くことは、顧客の幸せにどうつながるのかを想像するチカラにつながる。

入社前は、誰もがそのチカラの潜在性もあったはずなのに、自社都合ばかりを考える既存の社風に染まり、いつの間にか迎合している。
そして、それを認める勇気もないのは、美しいことだろうか…。

その企業文化は、全く美しくないと解っているのに、「キレイゴトだけでは生き残れない」と、いつの間にかその会社に依存していくのが、正しいことなんだろうか…。


■何のために生まれてきたのか?

また、このコラムでもこの言葉を言わなくてはならない。

みんなそんな事のために偏差値教育を頑張ってきたんだっけ?
そんな生きざまに我慢と妥協するために生まれてきたんだっけ?

みんな幸せになるために生まれてきたはずだよね?
何度も言うけど「どれだけ生きるか」より「どう生きるか」だ。

実際のところ、本気で楽しく歩むほうが、「仕事」ぶりもクリエイティブになるし、クオリティも上がる。
そうすると、いつ死んでも悔いのない人生で幕を閉じることができる。
どうしたら生き残れるかではなく、どう生き抜くかとは、そういうことだ。

「正しい判断」は、過去の材料を基にした客観的なものだから、ボクらではなくてもできる。

「楽しい決断」は、未来を見据えた主観的なもので、行動してみた後に意味を見出すから、ボクらにしかできないものだ。

そうした「自分にしかできないもの」は、誰もが持っていたはずなのに…
そのことも、実は充分気づいているはずなのに…
気づけば自分を見失っていること自体に、目を背けてしまうようになるのも、解らなくもない。

ただし…子供達は、大人都合の嘘を見抜く天才達。
そうした誤魔化しは、必ず彼らが見透かす。


■アンチテーゼよりもテーゼだ

何かに抗うことに留まるのは、ロックな仕事観とは言えない。
アンチテーゼを唱えるところで留まるのは、大したロックではないからだ。

ホンモノのロックは、クリエイティブに生きることだから、闘って「勝ち」を得るより、戦わずに「価値」を創り出すことだ。
アンチテーゼではなくテーゼを産みだすことこそが、ホンモノなんじゃないかなと感じるわけだ。

美しくない文化の会社は、未来永劫、価格競争に巻き込まれるところから脱却できない。
それならば、ボクらは、顧客・仕入先・スタッフとも、未来のあたりまえを創る価値を共創する仕事にすれば良い。

要は、「価格競争」より「価値共創」だよ。

ボクらは「勝ち組」ではなく「価値組」なんでね…。
勝ちに行くのではなく、負けない生き方こそがロックということだ。

キレイゴトで上等だよ…ロックなんでね。

競争しなくても人は生きていける。
競争しないほうがその人が活きる。
ボクらがキレイゴト上等としているロックな仕事観…顧客だけではなく自分達の未来も活きる事に本気で仕えるということは、「競争の美徳化は子供も大人も疲弊させる」というコラムに記載したことにも関連して、あたりまえの土台にもなっている。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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#子供達の意識を変えたければまずは我々大人から
#子供達は大人のウソを見抜く天才達
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