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0歳児からのインターンシップ制度

「この国から保育園・幼稚園・小中学校を廃止して、新たな試みをしたらどうだろう」というこの話は、教育機関に対する批判ではありません。
「人の育み」の環境をデザインしていく上で、これまでの固定観念や常識に囚われることなく、自由気ままな思想でブレインストーミングをしていた中で出てきた空想です。
これを憚らずアウトプットすることにしました。

「次世代に繋がる価値づくり」をテーマにして、長年ボク自身が企画運営に関わる交流会があります。答えのないものに対し、世代・業種・経験・役職の壁を越えて、いろんな価値観のアプローチの体験を共有しています。

先月、「オトナの可能性をデザインしてみよう」というテーマで、いろんな思考が交わされてきた中で、終盤には尊敬する方から「もう学校をなくしてしまっても良いんじゃないか」という投げかけがありました。

言葉尻だけをとらえるとドキッとするご発言ですが、その日から「学校が無い替わりに…どういう環境設定をすると子供も大人も成長できるかな?」ということを考えるのが、どんどん楽しくなっていったのです。

「ブレインストーミングは、健全なる悪ノリで良い」という交流会参加の別の男性の言葉にも押されて、その日以降、空想と理想の情景が頭の中で飛び交いました。
複数人数でブレストを実施すると、さまざまな価値観が折り重なり、さらに建設的なアイディアにも発展しやすいですが、敢えて独りでやっています。


■educationは教育ではなく発育


福沢諭吉が「education」の和訳を「教育」にすることは最後まで反対されていたとか。

福沢諭吉は「学校というのは人にものを教えるところではなく、人が発達するのを邪魔せず促進する環境である。だからこそ、(educationに当てられた)「教育」という言葉は適当ではない」と言い、「教育」の代わりに「発育」という言葉を用いるべきと提唱している。

SankeiBiz 2019.6.13 野村竜一氏コラムより

学校は、集団生活と知識を学ぶところ。
進学塾は、情報処理力を高めるテクニックを習得するところ。
大学では、就職活動に備えるところ。

もちろん「うちは違う!」と主張されるところもあるでしょうが、総じて考えると、実態としては「企業にとって都合の良い人材を育成するプロセス」と言わざるを得ない場面を散見しています。

また、多くの家庭でも「子供の頃に苦労して勉強することで、一流大学に進学すれば将来の選択肢が増えるし、一流企業に入ると安泰で楽になれる」という激しい思い込みの大人が多いことも、まだまだ耳にします。

さて…高学歴高収入となると、「楽に」になるのでしょうか…。
ボード版の「人生ゲーム」でも、高学歴高収入のプレイヤーであっても人生山あり谷あり…最後は破産することもあります。

誰もが自分と周りに幸せをもたらすために生まれてきたとしたならば、心底楽しかったと思えることでないと、どこか嘘が生じますし…本気で楽しいと思えることは、何一つ楽なことはありません。

したがって、「人を発達するのを邪魔せず促進する環境」としては、幼少の頃から社会との接点を思いっきり増やして、人に喜ばれる価値づくりの楽しさを、早めに体感してもらうことなんじゃないか…
そう考えると、保育園や小中学校には行かずに、幼少の頃から早々と社会に出たらイイよねというのが、ブレインストーミングの根幹に芽生えました。

今は、大家族化から核家族化となったことで、子供に接するのは親世代だけで、育みのプロセスで、祖父母や血縁の親戚との接点も激減しました。
また、街からは商店街もなくなり、近隣との付き合いも希薄となり、子供達が親以外の「働く大人」との接点が極端に減っています。

そこで、こういう空想アイディアが浮かんだのです。


■あらゆる職場に子供同伴の社会


保育園・幼稚園・小中学校がなくなる替わりに、すべての子供達は、職場で育てます。しかも、あらゆる職場で育てます。

あらゆる職場ですから、取引訪問先にも、乳児から15歳くらいまでたくさんの子供達がいますから、「子供がいると取引先に迷惑がかかるのでは」という心配も要りません。

つまり、子供達は、各家庭だけではなく、住んでいる地域と働きに出ている職場の全員の大人達で育てます。
企業規模や業種に関係なく、全ての大人が職場に乳児から15歳までの子供を毎日連れて行きます。

「子供達がいると自分達の仕事にならない」…果たしてそうでしょうか?

それも固定観念に過ぎず、そういう決めつけは、「子供達がいるからこそ、生産性が高まる環境設定を考えてみる」という思考も生まれません。

同じ地域の子供達は、どこの家の子に関係なく、地域の大人達が対話もし、躾もしていく…したがって、職場に連れられてきた子供は、職場の大人全員が性別や世代に関係なく、親代わりとなります。

営業先や打ち合わせにもお子さん同伴…訪問先の担当者も、打ち合わせの席にはお子さんも同席なので、全くのお互い様。
しかも、同伴する子供は、自分の子供とは限らず、社内スタッフのお子さん誰でも構わない環境とします。

移動途中の電車は、シルバーシートや女性専用車両に替わり、ベビーカー専用スペース設置車両や、親子専用車両など新たなユニバーサルデザインが登場するかもしれません。

打ち合わせが終わると、同席の子供と一緒に内容を振り返ってみたりする対話も重要になってきます。

現代社会のように教育機関が整っていない大昔の時代に暮らしたことはありませんが、部族にいる当時の子供は、日々の暮らしから大人の仕事を見て、いろんな大人が日々なりわいとしていることを体感し、家業や村の仕事を幼い頃から手伝いながら育ってきました。

昔できたことが、現代ではできないとあきらめるのも、どこか言い訳がましいし、悔しい。
むしろ、技術革新により、さまざまな利便性の高いツールが開発され、溢れるほど物に恵まれた現代社会の今だから、もっと機能的・有機的に作用させることがあるかもしれません。


■社会適応力を体感した後に学習


この発想に至った背景には、「読み・書き・そろばん」という基礎学習力のあり方について、冷静に考えてみたのです。

人は皆、自分にできる事・自分だからできる事・自分にしかできない事などを活かして、何かしらの価値を産み出しています。
その個々の働きによって、相互に幸せな社会を築こうとして、人とコミュニケーションをとりながら、産物を造り、サービスを提供し、人や物や情報を流通させて、経済を循環させています。

それならば、今自分の身近にいる大人が、どういう価値づくりをしているのかを、オムツをしている頃から目の当たりにして、心豊かな価値づくりを実現させるためには、どのように人と関わると、楽しく働いて生きていけるのかを感じてもらうのは、アリなんじゃないかということです。

以前、株式会社えとこえの代表で紙芝居師の藤井一さんに伺った見解で、「学校では、読み書きそろばんは習うが…しゃべるを習わない」というお言葉も思い出します。

つまり、子供達には、各職場で必要とされている「読み取る」「伝わるように書く」「伝わるように話す」「根拠を示すために計算をする」ということを体感して、最高にリアリティのある学びの場を楽しんでもらいます。
会社の人事部には子供発育担当の役割も重要になってくるので、現在教員をされている方でも、ファシリテーション能力と感性が高い人は採用されるかもしれません。

そして、企業活動の中において、さまざまな利害関係者…お客様だけでなく仕入先との良質な関係性、働く環境整備のこと、地域社会とのつながり、銀行や株主など、自社の業態以外の人たちとも、触れ合う機会があります

そうした機会を増やすことで、理屈抜きで右脳に訴える「憧れの働き」をする大人に触れ、さらに「自分がそういう働きを目指すために必要と思える専門課程」も自ら学ぼうとします。

そこで、自分を活かして働く学校に進学という流れをつくります。
今の高校にあたるのが、その学校かもしれません。

もちろん、企業活動は、規模や業態に関わらず、美しい文化なき組織は衰退していきますので、「哲学」「アート」「ポエム」「芸術」「音楽」「スポーツ」も重要になってきます。


■今の学校行事は会社と地域がやる


人との連帯感、心の連携、美意識の育みは、これまで学校科目以外に、運動会や文化祭、部活動や課外活動がありました。

それはボクの空想の世界では、企業と地域が行います。

文化祭は、地域でいうと元々神社などにあった祭りもそうですが、企業内や地域が、大人も童心を忘れず…むしろ、子供達が心待ちにしたくなるほど大人達自身も楽しめる文化祭にします。

演劇好きが舞台で演じたり、親父バンドが出たり、若い子の漫才やガチのお化け屋敷もやったり、プロ顔負けの焼きそば屋台が出たり…。

実は、その文化祭は、その地域や企業による「展示会」を兼ねており、その地域・その企業のその一年の価値づくりの成果を外の人にも見てもらう機会にし、自分たちの領域以外の人との接点を楽しむ機会にしてもらいます。

「文化祭」というと、つい遊びの要素だけとなりがちですが、肝心なのは、子供も大人も対等な立場となり、自分達が日頃支え合っていたり、高め合っている価値づくりの意味を、「遊び心」を入れて確認し合うことが目的でもあります。(いわゆる地域内広報・社内広報活動となります)

それが、いろんな企業や、いろんな地域でやっているので、今度はそうした外部にみんなで出向くのが「オトナコドモ全員参加の遠足」となります。
(おやつは一人400円までということになるかどうかはワカリマセンが)

運動会などの行事も、大人も子供も対等にやっていくことになるので、案外子供達にも負けたくない大人の方が、日頃からの健康促進にも意識が高まるかもしれません。


■子供のためにと思わなくても良い


この手の話は、必ず「オトナがどれくらい自分を犠牲にしてコドモの面倒をみなくてはいけないのか」という論点も出てきたりします。

ボクの空想では、毎日職場に、価値づくりに挑んでいる場面に、子供達がいるほうが、大人の方が助かる場面もたくさんあるような気がしています。

まず、子供達は大人の嘘を見抜く天才達。
そうであるならば、未だに後を絶たない「企業の不正表示・不正会計・不正検査」も、自然と減っていく可能性もあります。

そもそも、誰の目を気にして仕事をしているのか…。
仮に、不正をしてでも成果を上げることを虐げられる同調圧力が会社の中にあったところで、そうした現場または監査体制のところにも、必ず子供が同席しています。

また、「本来の自分が想う価値づくりのあり方」についても、今多くの職場では「言いたいことが言えない」空気感も漂いがち…つまり、心理的安全性の担保が損なわれている企業文化となっているところも多いのが実態です。

そういう組織こそ、子供達がいるからこそ…むしろ子供達にも理解共感してもらえる価値づくりにしていくためには、権力者の顔色など窺っていく暇がなくなり、まさに本質的な切磋琢磨が生まれやすくなるのではないかと想像しました。

結果として「0歳児からのインターンシップ制度」は、子供達の育成ではなく、もしかすると、子供達から大人が学ばされる「価値づくりのあり方の最適化」の可能性も出てきます。

つまり、子供達だけのためではなく、自分達も納得の職場環境を育む可能性も出てきます。


■教育産業を敵にしたいのではない


冒頭に記載したとおり、ボクらは、今の教育環境に異を唱えるアンチテーゼを強調したいのではありません。

むしろ、笑顔でテーゼを創りたい。
それでも不快感を与えるようなことがあれば、屈託のない「健全な悪ノリ」としてお許しいただきたい。

ただ、教育産業だけが子供達を育てる…教育機関と各家庭にだけ子育てを任せるのではなく、産業が発育になるという発想があっても良いのかなというのが、今回空想をしてみた結論です。

少年スポーツの世界でも、指導者も親も、未だに勝利至上主義となりがち。
学校教育でも、偏差値教育によって競争原理が生まれ、子供の評価が数値化されがち。
大人の人事考課でも、結果だけが全てとなり、未来のあたりまえづくりという挑んできたプロセスに価値があることが蔑ろになりがち。

これでは一体、誰が幸せになる社会になるのでしょうか?
ボクらは、見た事のない誰かだけを幸せにするために、辛いことを我慢して働いているんでしょうか?

子供達の主体性と感性の育みは…個々に芽生える知性の育みです。
知識は誰が答えても同じ答えになりますが、知性は人によって答えが違ってくるからこそ、未来に活かされる可能性が高まります。

つまり、幼少時からの子供達の主体性と知性の育み…それと、社会での価値づくりのあり方には、深い相関性があるのは間違いありません。

この相関性を間接的ではなく、直接的なものにするのが…
「0歳児からのインターンシップ制度」という空想でした。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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