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醜いアヒルの子なんて言わなくてイイ

童話タイトル自体がまあまあ酷

自分は持ち合わせていない異質なモノを、他の人にはあると初めて認識した時…抵抗なく受け入れていれば、その先も理性が働くようになる。

ところが、初めてそれを認識した時に、心身に何かしらの苦痛があると、その先には違和感というよりも、嫌悪感に近い苦痛なものが働いてしまう。

そして、その時の苦痛というのは、自発的な感覚のものよりも、周りの人達のエゴと先入観に染められてしまう影響が大きいこともある。

そう考えると…

童話の「醜いアヒルの子」というのは…よくよく考えてみれば、タイトルからして、なかなか酷なものじゃないかな?
タイトルの時点で「醜い」という主観が入っていることが不思議に思える。

日本語タイトルだけでなく、原題のデンマーク語でも、英語版であっても、そのまんまの意味で、「Den grimme AElling」「Ugly Duckling」らしい。

この童話は…

「他とは異質であることを比べる必要がなく絶対的価値に自信を持たせたり、容姿や容貌からの主観の判断は良くないことを示唆する」というお話。

物語としては、どん底的な立場から大逆転~っ!という展開を強調したいからこそのタイトルネーミングのような気もする。
それでも、見た目が他よりも異質であるだけで「醜い」っていうことになるって…結構怖いことじゃないかな…。

さすがに厳しすぎるタイトルな気がするんだよね。


気になった背景

経済活動における価値づくりの根幹となる子供達の教育環境において、現場でのさまざまな課題を慮って、以前こんなことをTwitterで呟いていた。

自ら幸せになるために、教育がある。
無限の可能性のために、教養を使う。
人間だから間違うこともあるだろう。
それでも人とは違う答えに辿り着く。
やらない言い訳が並ぶ「口答え」に次に繋がるものはない。
本気で挑んでいる中の「手応え」は自分オリジナルの財産。

ボクらは、誰が答えても同じ答えとなる知識の詰め込みよりも、人によって応えが違ってくる知性を磨きたくなる人を育てたいんだよね。

答えが一つだけなのは、確かに楽だ。
教える方も教わる方も、楽ではある。
でも一つしかないのは、楽しくない。
答えは、いろいろ自分で作ってみる。
問いは、自分からひねり出してみる。
それは面倒だし、決して楽ではない。
とにかく…人と同じ答えばかりでは楽しくない。

この二つのつぶやきは…「他とは異質であることを比べる必要がなく、自分にしかない絶対的価値に自信を持って良いんだよ」ということを伝えたい意図があったこともあった。

その意図と親和性を感じる童話として、そういえば「醜いアヒルの子」という童話があったなと思い出して、今さらどうでもイイことかもしれないが…この童話のタイトルが、いきなり「醜い」となっていることに、どうも心に引っ掛かりができてしまったんだよね。

これに代わるタイトルをボクが考えても…
「周りとは違うあなただからエエねん!ヘンタイでおめでとう!」
これは、もっと誤解も生む、とてもチープになってしまい、余計に社会には受け入れられそうもない…。

  

歴史が作る社会支配

白人警官が、黒人を過剰な扱いで死に至らしめたことを発端に、暴動が起きているアメリカ事情…何年か一度、必ず起きているよね。  

人種差別…なくならないね。
もう、何百年もなくならない。

20代の初めに、野宿出回った海外一人旅の時にも、ハッキリとボク自身も差別的空気を受けたし、ボクの娘も、海外旅行でレストランなんかでも露骨に「有色人種」への差別的空気は体験している。

そうした体験からも、暴動は突発的な理由で起きるのではなく、日々感じている鬱憤(うっぷん)の積み重ねからもあってのことという推察もできる。

もちろん、人や物に危害を加える暴動は賛成できない。
それでも、これは未来永劫なくならないんだろうなとも感じていた。

なぜなら、社会支配の「歴史」が根強過ぎるからだ。
歴史の背景には、いつの時代も必ず「意図」が働いている。

何百年も続いていた奴隷制度だって、ヒエラルキーや資本論を中心に、人の「意図」が働いていたことだ。

奴隷解放運動につながったことは、当時の常識を覆す凄いことだっただろうが、制度としては無くなっても、経済的格差を生む現代社会においても、根本的な偏見や差別はなくなっていないんだよね。

いずれにしても、先述のとおり、自分が持ち合わせていない異質なものに対する嫌悪感は、結局は「自発的な感覚のものよりも、周りのエゴと先入観が作用してしまう」ということが、歴史に刻み込まれている。

もちろん、童話を冒涜するつもりはない。
それでも、タイトルに「醜い」という言葉があること自体が、なかなか怖いことだなと、あらためて感じた。

そして、もっと怖いのが…こういう話題をタブー視して、目を背けることではないだろうか…。

人と違うことが「認められる」日本と…人と違うことが「求められる」海外の社会環境を踏まえ、そろそろ、この国の画一的教育そのものが限界にきている。

それは、どの大人も自覚しているのに、「企業の利益最適化のために従順なる人材育成」をベースにした偏差値教育が、未だに主流となっている。
無関心を装うことで、ボクらの次世代は、もっと自分自身の個性を押し殺した画一的な人しか育たないのは、ものすごく恐ろしいことだ。

特に「アナキズム」的なことを主張をしたいのではない。

みんな人と違うことが求められるからこそ、経済は「ありがとうの循環」で成り立つというあたりまえのことを、幼い頃から体感させたいことを考えると、「醜いアヒルの子」というタイトルは、やはり好きではない。

「人とは違った子」でいてくれて、ありがとう。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合義徳

#キレイゴト上等
#自分を活かして生きる者こそが生活者
#この国の常識を疑ってみる
#子供達は大人のウソを見抜く天才達
#経済はありがとうの循環でできている
#躍心JAPAN

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