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学校でも家庭でも…反省よりも内省を!

「反省」しない人は他人を欺き、同じ過ちもしやすい。
「内省」しない人は自分を欺き、同じステージばかりを歩みやすい。
これが、このコラムの結論であり、小中学校で「反省ばかりさせていては、自分を見失う人を輩出し続ける」ことのリスクを唱えたい。

反省ばかりさせないでもらいたい

学校や家庭での教育現場で、子供に「反省」はさせても「内省」の機会を与えられる所が、なかなか無い。

これはのちのち、社会人と成った時も、価値創造力を高めるチームづくりにおいて、大きな弊害の要因となっていることを実感している。

「反省」はするが、日頃から「内省」をしない人ばかりが集まっても、その組織はクリエイティブ性には欠け、イノベーションを起こすなど、程遠い話となる。

ボクらは、「内省」とは「自分の行動にどんな意味があったのかを振り返ること」だと捉えている。


内省とは見えないもの

学び本来の「目的」とは…少なくともボクらは次の二つだと感じている。

  • 幸せに生きられるようになること

  • ウソのない自分を本気で楽しく活かして生きる人になること

人が学ぶ「目的」とは、そういうことだとしたら…教育現場の段階から進級するにつれ「反省会」よりも「内省会」が増えてもおかしくないよね。

確かに、そういうオペレーションにすることは現実には難しいとは思うよ。
なぜなら、内省は、反省のように、他人からは指摘ができないからだ。

他律的環境の中にあるのではなく、自律的思考の中…つまりは「内在化」しているものであり、明確にルールやスローガンに照らし合わせる指標みたいなものも存在しないから、個々に向き合ってあげる先生も大変だよね。

それでも…学級会などで「反省」ばかりさせられていると、「真面目」の意味を誤解したまま大人に成ってしまいがちになるんだ。


誤解が絶えない「真面目」

「真面目」とは…「人に従順であるであること」「ルールや規約を守り続けること」という意味だなんて、どこの辞書にも載っていない。
本来の意味をそのように勘違いしている大人が多過ぎると今のままだと、国語辞典もそのうち改訂されてしまうんじゃないかと心配なくらいだ。

きっと、「マジメにしなさい!」の…「しなさい!」という部分の印象が、強く残ってしまっているから、誤解しているんじゃないかな?

本当の意味は「自分の真理・ありのままの自分・本気であること」だ。
「本気」と書いてマジと読む…そのまんまなんだよね。

つまり、「内省」の機会をどれだけ設けるかってことだと思うんだ。
「自分はどうありたいのか…自分はどうしたいのか」…これを自分に問い続けることが大切となる。

今は、この意思表示ができない大人が増えすぎている背景の一つには、「内省」はせず「反省」ばかりしてきたというのも大きいんじゃないかな。


問う力の質を高める

ボクらは、価値づくりの現場で「内省」をする機会・「内省」したくなる環境をどんどん増やしている。
未来のあたりまえを築く「価値づくり」においては、「自分達の行動にどういう意味があったのか」を問い続けることが、価値づくりの土台となるからだ。

本来、仕事は本気で楽しくやるもの。
ウソのない自分で本気で楽しまないと、自分達がそこに勤しむ意味を感じながら、他のチームには思いつかないクリエイティブなことなんていう事は、まず出てこない。

もちろん、そこには楽な事は一切ないんだけれど、本気で楽しいと思えることは長く続けられる。

Whoever is happy will make others happy too.
幸せな人というのは誰であっても、ほかの人のことも幸せにするでしょう。

アンネ・フランクの言葉より


自分と本気でコミュニケーションを!

大人になってから、個々がクリエイティブで情熱を傾け、チームでイノベーションを起こしていかないと、価格競争からの脱却など不可能。

そもそも、国内での急激な人口減という未曽有の経済環境に加え、パンデミックによる半強制的な習慣の変化が求められている中で、クリエイティブ性のない組織は、存在価値すらなくなる。

「正しい答え」を素早く出す「情報処理力」による最適化から…
「質の高い問い」を生み出す「情熱思考力」による素敵化への転換

他者と上手くコミュニケーションを取る力を養う前に…
まずは自分と本気でコミュニケーションを図る力への覚醒。

そろそろ「反省」だけでなく「内省」も重視していこうか。

高学歴、有名企業に勤めることをゴールとして、勤め先でノルマ達成にむけての「反省」ばかりを日々繰り返しをしていても、未来のあたりまえを創るチカラにはつながりにくい。

あなたの顧客はどなたなのでしょう?
あなたが顧客に提供した価値の先には、顧客にはどういう幸せをもたらせるのでしょう?
それは、なぜ自分達である意味があるのでしょう?

そんなことを、それぞれの大人が身近にいる子供と一緒になって、「内省」する機会を作っていってもいいんじゃないかな。


毒よりも独を出そうか!

人が心に宿している「ドク」には、二種類あるように思うんだよね。

・吐き出して人にダメージを与える「毒」
・アウトプットすることで未来の自分に期待したくなる「独(独自性)」

前者の毒は、他律的なものにストレスを感じて、比較優位性の中に自分を置くだけの惨めなもの。
そこにはクリエイティブ性はほとんど感じらないし…毒牙をむき出してばかりだと、人も離れていく。

後者の「独(独自性)」は、まだしっかりとした言語化にはなっていなくても、内在化していた独自の感性や関心ごとが自律的に芽生え始めたからこそアウトプットしてみるとイイものだ。

ところが、それを自由に解放させずに溜め込み続けると、結局は本来の自分を見失う。
それでも、幼い頃から、「上手く綺麗に表現しないといけない」という空気感や抑圧がいろんな場面で漂っているから、なかなか表に出さない。

そして、「とにかく自分がダメでした」という「反省」の言葉だけが上手になっていく。
日頃から「内省」する習慣も身に付けていないと、いつまでも内在化しているものとは向き合わないので、気づけば「毒を吐く」ことにも陥りやすい。

本来とても面白い「独」をアウトプットすることは、大人であるほど憚られるようなってしまう。
だからこそ、「自分もまだまだ内省して、言語化するのは下手なんだけれどね」と認めて、身近な子供と対等にお互いの内省を語り合う機会を設けてみたらどうだろう?

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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