鯉を支えるまな板でありたい
「才の祭」も、いよいよ完成お披露目まであと3日。
小説の公募から始まり、歌詞、楽曲、動画へとバトンが渡されてきた、関わる人みんなの想いが一つのカタチになる。
僕は音楽の分野で関わらせてもらっている。曲は、つい数日前最終調整を終えて動画チームに心を込めてお渡ししたばかりだ。
cofumiさんの書かれた歌詞を歌に乗せて表現してくれたのは、SSWのソーダ・ヒロさん。
やわらかくて優しい歌声でありつつ、ハリのある透き通るような歌声で、「クリスマスの花束」を彩ってくれた。
ボーカリストとして「才の祭」に参加した経緯、詞や曲に込めた想い、レコーディングで体験したことなど、こちらの記事にまとめてくださっているのでまだの方はぜひ。
この記事の中でソーダさんは、レコーディングの一連の流れの中でのご自身のことを「まな板の上の鯉」と表現している。
曲を作るということが一つの料理だとしたら、各パートの音は食材で編曲は調理にあたることから、「まな板の上の鯉」という表現は彼の感じたであろうことが過不足なく表現されていていい喩えだと感じた。
アレンジを担当した僕がボーカリストのことを「まな板の上の鯉」とか言ったら鼻につくようだが、手前味噌とかそういう話ではなく、曲を作る工程をうまく言い表していると感じた、という意味だ。実際に自分もギターの録音素材だけを提供するような場面では、同じように鯉なのだから。
まあ、率直に言って、「まな板の上の鯉」という表現はアレンジャーとしては言われてうれしい言葉には違いない。
これは感覚的な話なので屁理屈と捉えていただいて結構なのだが、彼が鯉なら僕は板前ということになるが、、、板前の目線から鯉を見下ろして調理しているかというと、それはまた少し違うと思っていて。
いろんな考え方があるけれども、少なくとも「クリスマスの花束」という楽曲に関してはボーカルが主役だと思っているので、せっかく活きのいい鯉を台無しにするようなことがあっては板前を引退しないといけなくなる。
ボーカルを引き立たせることが、編曲時の頭の中では9割くらいを占めていたので、僕がやったことは良い包丁を入れるとか絶妙な塩加減で焼き上げるとか(鯉を焼いて食うのかどうかは知らん)ではなく、どちらかというと、そもそも活きの良い鯉がより一層活き活きするような盛り付けであったり、あるいは滞りなく調理が進むようにしっかりと下準備をするとか、そういう方向性に近いような気がする。
そういった意味では、腕のいい板前というよりも良質なまな板であれたのであれば嬉しいと思っている。
おそらく、純粋にアレンジをするだけの状態であれば、良い板前でいなければならない。見下ろして調理は向いてないなどとボヤいている場合ではない。それが君の仕事でしょうという世界だ。
僕の場合は、ギターの演奏や作曲そのものなど、「食材側」として関わっている面も多分に含まれるので、鯉でもある自分が板前になることについて多少の違和感を抱くのかもしれない。
だから、まな板のほうがしっくりくるな、って、そんな風に思う。
もちろん、ソーダさんの言葉は素直にうれしかったし、ましてそれを否定するつもりなど毛頭ない。
「クリスマスの花束」は、女性視点で作られた楽曲「Snow Globe」とともに、12/20公開。
楽しみで眠りが浅いせいか、最近、変な夢をよく見る。
▼原作小説
▼歌詞 女性視点「Snow Globe」
▼歌詞 男性視点「クリスマスの花束」
▼「才の祭」メイキング映像・記事
▼「Snow Globe」メイキング
▼「クリスマスの花束」メイキング(?)
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