徒然草とともに 2章 

 きのう39段の法然上人のことばを、法師が讃えていることを紹介したものの、簡略過ぎて意味がよく伝わらなかった気がしている。これに限らず宗教は奥が深く、なかなか本質をとらえるのはむづかしい。

 かつて哲学者の西田幾多郎先生は「善の研究」において「宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である。厳粛なる意志の要求である。人間の目的そのもので、けっして他の手段とすべきののではない」とし「現世利益のために神に祈る如きはいうに及ばず、いたずらに往生を目的として念仏するのも真の宗教ではない」と断じられ、法然上人の遺志を継いだ親鸞聖人の著『歎異抄』にも「”わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり”といってある」と書かれた。

 しかし、だからと言って親鸞上人が、念仏を唱える善男善女の行を決して否定していなかったことも明らかで、このひとこそ「悪人なおもて往生す、まして善人おや」という史上有名なことばを残した聖人でもある。

 そして、それなればこそ、先師法然上人の「疑いながらも、念仏すれば往生す」という言葉も生かされるのだ、と、私は信じ、これもまた尊し、と頷くのである。
  
 ところで続く40段は、因幡の国の入道なにがしかの娘が、米を食べずに栗しか食べず、たぐいまれな美しい乙女で多くの人が求婚した来たのに、親の入道が、こんな変わり者を人さまにお見せ出来ない、と許さなかった、というお話。兼好法師の諸国噺のひとつである。

  

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