徒然草とともに 3章 ⑱

 73段あたりから、78段まで、巷の人々の心がけや、ふるまいを、ひととおり、批判した法師、では、かれにとって、いったいどう云う心構えや態度が好ましいのだろうか、かれが述べる『よからぬ人』(76段)と『よき人』(73段)とはどういう心構えを持ち、どんな好ましい態度をとる人のことを指すのか、傾聴することにしよう。

 まず、”よき人”とは、73段では、正確ではない噂話(虚言)を喋り散らさない人、ということになっていたし、79段では、さらに、たとえ知っていることでも、ものしり顔に云わない人が”よき人”、ということになっていた。反対によからぬ人=かたくなな人とは、それまでも、ちらちら呟いてはいたものの、つまり、世間知らずで、教養のない人、ということになっていた。

 そこで、法師は、79段で、理想の態度として、”なにごとも入り立たぬさましたるぞよき”と結論するのである。これは彼独特の美学ともいえる気がする。小川先生は、これを「どんなことでも、余り深く立ち入っていない風を装うのがよい」と訳されている。

 これに続いて登場するのが、”よきひと”で、こういう人は、たとえ知っていることでも、それほど知っている顔をするだろうか?というのである。そして、これに続いて、かれ一流の偏見、と思われる言葉”片田舎よりさし出たる人”が出る。田舎者は嫌い、という都人の格差意識丸出しの言辞と思うが、我慢して読むと、こう云う人こそ、あらゆる分野に心得ているかのように差し出口をして、聞いているほうが恥ずかしいほど詳しいこともあるけれど、自分でもいかにも立派みたいに思う様子が、いかにも愚直で野暮くさい、といなしている。では、いったいどうすれば好ましいのか、というと、よくわきまえている分野では必ず口を重くし、問われない限り、何も言わないのがよろしい、というのだった。
 千年の昔といえど、日本人がいまだに継承している万事控えめの作法(美学)は、この時代から既にあったのか、と「うーん」と考えてしまうくだりだった。
                                                                                                                                                                                               


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