徒然草をひもとく 4章 (14)116段 名をつくること

 鎌倉後期から室町へ、法師の生きた時代は、政治体制は古来からの天皇制朝廷と武家幕府との協調のもとで、いちおう平穏を保ち、鎌倉と京都の2大都市を中心に互いの交流もさかんに行われ、経済発展めざましかった時代とか。
 文化的には、佛教や詩文の世界にも新しい波が生じ、なんとなく現代日本の世相に相似した エネルギーを感じさせるところがあるように思われる。
 そして、そのことを象徴するひとつの現象として、今日は116段の、兼好法師の寸評をとりあげてみた。
 まず、冒頭“よろづの物にも名をつけること、昔の人は少しも求めず、ただありのままにやすくつけけるなり”という言葉で始まるのだが、それならば、法師のいう“このごろ”はどうなのか、というと、名付けひとつにも、深く思案して、才覚をひけらかそうとしているように見える。といい、この場合、こうした今風名付けは、まず、当時さかんに建立された寺院や、よろずの物の名前にあてはめて、“いとむつかし”と述べたてる。
 むつかし、は107段にも使われていた表現で、注によれば、こうるさい、とか嫌味という程度の意味らしい。
 そして、それにつづいて、
人の名にも、目なれぬ文字をつけようとする。無益なことである。と切り捨てる。

そういわれて、なんとなく、思い浮かぶのは、近頃身近によくみられる、いわゆる、キラキラネームといわれる名前
である。法師の説によると、このように、なにごとにも、珍しいことを求めたり、ちょっと他と異なる説を好むのは才学の浅いひとに必ずあることだ、と批判している。
 しかし、ひたすら保守的なのが、必ず立派とは言えないとも思うので、時代を象徴するこうした風潮に、生きるエネルギーを汲み取ることもできるのではないか。生まれる子供に、ステ(捨て)だの、トメ(留吉)だの、とつけた悲しい時代は、もうおしまいにして前を向いて❛むつかしく❜考えないようにするのがいいかもしれない。
 今は、そういう時代なのだから。だれもが、なにものにも束縛されずに、自由に生きる可能性を求めることが許されるのだから、浅い深いは言いたい人にまかせ、思う存分考え、人間としてよいと思う選択をすれば、それでいいと思う。時代はそうしたエネルギーで動いて行く。なにごとも❛必ずあることなりとぞ❜なので、それでいい。



びつ

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