徒然草をひもといて 5章187段

177段以降、昔の言い伝え、有職故実、また私の小学校時代「修身」という教科で習った北条時頼の母、松下禅尼の障子紙節約論など、少し飛んで、187段の訓戒をひもとくことに、”よろづの道の人”という書き出しで始まり"たとえ不堪(かん)なりとも”ここでいう「不堪」とは下手という意味だが、そんな人でも、先祖代々それを家業にしている家に生まれた人は、そういう家の生まれではない素人の上手な人物と並べて、必ずそれよりまさっている、とし、そのわけは、常にたゆまず謹んで軽々しくしないこと、と素人がひとえに自由気ままにやるのとは違うからだ。という説である。
 芸能や所作ばかりではなく、おおかたの振舞・心遣いも”愚かにして慎めるは得のもとなり”と。
 日本独自の技芸界の世襲制度は、中世のころから、重要視されていたことがうかがわれ、わが法師もそれを”よし”と認めていたことがうかがえる。
 それがいいかどうか、決めることはできないが、現在でも、わが国ではほぼ定着している。
 ただし”巧みにしてほしきままなるは、失の本なり”という説は、現代世界では、とうていあてはまらないことは確かである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?