徒然草をひもといて 5章㊲

 196段から201段までは、日本ばかりでなく中国伝来の故事来歴、宮廷や寺社での儀式の取り決め、古来の言語的表現などを糺す段がつづく。時と場合によっては、参考にもなり、大切で有効なことだったと思うが、現代には、もうあまりかかわりのないことも多く、割愛して,202段に進む。
 202段で問題にされているのは、神無月という名称だ。10月は当時もいまも神無月と呼ばれ、出雲大社に八百万(やおよろず)の神さまが集まる月だと言われたりしているが、実はこの月が、神事に憚る、というようなことを記した書物など、どこにもないし、よりどころとなる文も見当たらない、と法師は述べ、但しこの月は諸神社で、これといった祭りもないから、こんな名になったのだろうか、という。
 そして、よろずの神様が伊勢大神宮にお集まりになるという説もあるが、それにもなんの根拠もない。もしそういう事なら、伊勢では10月を特に祭りの月とするべきだが、そんな例もない。また、10月は諸社への行幸例は多いが、但しそれはたいてい不吉の例である。と。
 いつもながら、社会のしきたりなどになんらかの歴史的根拠を求める冷静なまなざしだが、底辺には、常に宗教というものを、もっと精神的、本質的にとらえようとする姿勢が感じられる。非常に近代的で、明晰な論議だと思う。                                  


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