徒然草をひもといて 4章 (21)128段、鷹の大納言、129段、顔回

 法師が繰り返し述べている生き物いつくしみ説法、流暢なリズムで、こまやかに書かれ、読みすすむにつれ、その論旨に惹き込まれていく。
 14世紀はじめ頃の後宇多上皇の時代。先祖が代々大納言をつとめる家の御曹司、雅房卿、正二位大納言は、“才かしこく、よき人”で、上皇の信任篤く寵愛され、上位の大将に任じようか、と思召めされていた矢先、近臣が、とんだ告げ口をお耳に入れる。「ただいまあさましいことを見てしまいました」「なにごとか」「雅房卿は鷹の餌にしようとして、生きた犬の足を切っているのを隣の垣根の穴から❛見侍りつ❜」。
 聴かれた上皇は、気分が悪くなられ、そういう振る舞いを憎まれたあまり、日頃のご寵愛も冷めはて、昇進沙汰もなくなってしまうということになった。
 雅房卿が公卿の身分で、武芸者のように鷹を飼われていたのは意外だが、実は犬の足云々は、事実無根の虚言だった、とタネが明かされる。ご寵愛を妬んだ者に讒言をされたのである。
 気の毒だが、それを聞かれ、かかる行為を憎まれた上皇のお気持ちは尊く立派である、と、このあたりで、話の視点が変わるところが、後世の人間には、ちょっとあっけな過ぎて、理解しがたい。近習の言葉とはいえ、なぜ疑ってもみないで、糾明もせず信じ込んでしまわれ、寵愛の気持ちまで失われた上皇の態度は問われず、生き物をいかにあわれまれたか、かかる行為を憎まれた上皇の御心はいと尊きことなり、という展開に変わっていく。
 洋の東西を問わず、こうした根も葉もない虚言からひきおこされる悲劇は少なくない。
 ただ、生き物の扱いがひどいのが問題というのは、生類哀れみの令などとも引き合わせ、日本独特かもしれない。
 この段で法師が言いたいのは、なにより、このように心ない人間からこうむる生き物=畜生の惨害にたいする許し難い怒りである。
 生けるものを殺し、傷つけ闘わしめて、遊び楽しまん人は❛畜生残害のたぐいなり❜と語調を強めるが、もしわが兼好法師、古代ローマびとが、コロッセオで奴隷たちを戦わせて楽しんでいる剣闘シーンを見せられたらなんといったであろう。
 さて、よろづの鳥獣
小さな虫でさえ、こころを留めてその様子を見ると、子を思い、親を慕い、夫婦つれだって、妬んだり、怒ったり、欲深く、我が身を愛し、命を惜しむことにかけては、ひたすら愚かで一筋で、人間にまさって甚だしい。このようなものたちを苦しめて、いのちを奪おうなんて、これほど可哀想なことがあるものか。すべてあらゆる命あるものを見て、慈悲の心を持たないものは人間ではない、と言い切つて閉じる、


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