10月23日日曜日☀随想、徒然草とともに(27)

 ひきつづき第238段のについて、11世紀の白河院の随身で、騎馬の名手として世に知られた近友が、自身の馬芸について七箇条の自賛を書き留めているのを読み、たいしたことはない、これなら、それにならい、自分も書いておこう、と七箇条書きつらねたのを、四箇条まで前号で紹介した。
 そして、あとの二箇条は、格式高い寺院での説教中の出来事や、当時の宮廷行事にまつわるアクシデントは割愛しようと考えていたが、やはり紹介してみることにする。博識で土地勘も抜群の兼好のこと、ここでも、窮地に陥った人に、さっと、人知れず救いの手を出す。
 ひとつは当時、東山にあった那蘭陀寺という格式ある寺で、中国帰りの道眼上人が、説教中に用語をど忘れされ、聴聞中の弟子たちに訊いても誰も答えられなかった。そこで、別席にいた法師が、こうではないか?と正解を与えてその場を救い、上人のお誉めにあずかった、という話。
 次の第六話も、正月の大切な宮廷仏事のあと、僧正同伴の僧都(のちの仁和寺真乗院主)が迷子になって大騒ぎに
なり、誰も見つけられなかったが、さっさと探し出して連れ戻したた話。
 この二話は、時代背景が、込み入っているので、端折るつもりが、玉川先生のじつに綿密な注解に導かれ、あらかた書いてしまった。だが、自賛とはいえ、兼好和尚の頭脳の並外れた明晰さもさることながら、身を謹んで律する過剰なまでの潔癖さもうかがえて、興味深い。
 時代色を取り除いて考えれば、現代でもありうる話でもあり、思い当たることもないわけではない気もするのである。法師の肉声や、聴聞僧徒たちの歓声さえ聴こえてくる気になる話である。
 因みに、このとき上人がど忘れされた法語とは、”八災”といい、人の心を乱し、禅定を妨げる八つの災いとして下記の8語を挙げて説いている教えらしい。
憂、苦、喜、楽、尋、伺、出息、入息 とか。
 よく解らないが、現代の俗世では、すっと通用するとは考え憎い難解な用語ではある。


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