40:一茎の葦;ヨーロッパ文明の魅惑

 結局プラハ行きは実現しないまま、わたしたちは、またパリに舞い戻り、たか子さんが開いてくれた牡蠣料理店でのお別れの宴のあと、彼女はパリにとどまり、わたしは家族の待つミュンヘンに戻った。

 そしてその直後、わたしたち一家は、例のおんぼろ車でイタリヤ旅行に出かけ、間もなく2月に行われるミュンヘンの子供たち中心のお祭りに間に合わせるために、雪のアルプス越えをして、ミュンヘンに帰ってきた

「よく無事に帰れましたね!」などと呆れられた旅程で、確かに雪のアルプス越えをあのおんぼろ車でやってのけたのは、かなりの冒険だったようだ。それはひどく中古のフォルクスワーゲンで、ミュンヘン大学の教授秘書の紹介で、台湾の留学生から購入したが、「トテモイイ車ヨ」という言葉を信じたのはまずかったかな、と悔むような、がた車だった。もちろんそのぶん安かったけれども、何しろ暖房装置すらついてないガタ車で、凍えながらみんなで窓の雪掻きをしいしい、崖を滑り落ちそうになったりして、どうにか山の尾根道を越えたのである。ふだんは慎重なだけだ、などと思っていた夫の運転手腕も相当なものだったんだ、と今更感心している。

 高橋たか子さんとの旅は、わたしにとって実り多いものではあったが、ともに文學に志してはいるものの、彼女の感性と、私のめざす世界との相違は互いに知り尽くしていたから、特にそれについて、話し合うことはなかった。ただ、あるとき二人で街を散歩していたとき「あんたは人間が好きなのね」と、彼女がぽつんと言ったことばが、今も耳に残っている。

 いづれにしても、二人とも貪欲にヨーロッパ文明の根幹にあるものを、しっかりと掴みたいと思っていた。たか子さんのそれは、ボードレールの「悪の花」に象徴的にあらわされる魂の奥底にまで食い込む夢想とないまぜの神への渇望であったかもしれないし、わたしのそれは、モンテーニュやパスカルにはじまる人間探求の果ての神への感覚的近づきの、いまだ未熟な予知であったような気がする。それは東洋の半ば目覚めたばかりの女たちにとって、いかに遠い道のりであったことか。

 旅によってヨーロッパ文明の中に、そして人々のあいだに、わたしたちの魂の底に、民衆という形では括れない魂の深いところに世界を持つ人々の中にも、沁みわたっているイエス・キリストの存在が、どーんと居座ってしまったのは事実である。互いにそのこともわかっていたが、そのときは口には出さずに別れた。

 間もなく私たち家族にも、帰国しなければならない事情が起こったことは前に述べたが、2月には、もう、マンションを引き揚げることになり、いろいろ片付けねば、とわたしひとり焦っていたものの、それもなかなかはかどらないまま、予約の飛行機に乗り遅れるなどの大失敗のあと、わたしたちは汽車でスペインに向い、どうやら無事に同じ日本の学者仲間の帰国組と合流できた。そして、そこで幾日かすごしたあ、日本へ帰ってきた。そのあたりのことや、あとの話は私の「アムゼルの啼く街」というエッセイ集にも書いたので、ここでは省略しておく。 

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