日記随想:徒然草とともに 2章 ㉗38段 名利に使われて…
第38段で、いよいよ兼好法師の兼ねてからの、老荘思想や、法然の唱える浄土仏教を基調とする、無常論的人生哲学が徐々に明らかにされてくる。
まず、書き出しは”名利に使われて、閑(しづか)なる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ”とはじまる。続いて、”財(たから)多ければ、身を守るに惑う。害を買い、累(わざわい)を招くなかだちとなり…といった調子で延々と古書による戒めのかずかずを下敷きにして”黄金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし”“利に惑うは、すぐれて愚かなる人なり”と書く。
ではどうするのが賢明なのか?というと”埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ”ということなのだが、それにも条件がある。法師によれば、名誉あ高い位についているからと言って必ずしも優れた人物というわけにはいかない。愚かで人品劣る人でも、家柄に生まれ、時期に恵まれると、高い位に昇り、豪奢な暮らし極めることもあり、すぐれた賢人や人格者・聖人でもみずから賤しい位に甘んじ、時に恵まれずに終わる人も多い。
だからひとえに高い官位や地位を望むのもまた愚かなことである。智慧と心とこそ、世に優れた誉を残すのが、望ましいが、これもよく考えると、誉を愛するのは、人の評判がよいことを喜ぶことであり、褒める人も、そしる人も共に世にとどまらず、伝え聞く人もまたすぐ世を去ってしまう。誰に恥じて、誰に知られることを望むのか、誉はまたそしりのもとでもある。死後に名を残してもなんの益があろうか。これを願うのも愚かである。
強いて智を求め、賢を願う人に言うならば、智慧が出ると、偽りもあり、才能は煩悩が増長したものでもある、伝えて聞いたり、学びて知ったりはまことの智ではない、どういうものを智というのか?いかなるものを善というのか?
ここに至ると、法師の説によれば、人間の脳の働きは、真の智慧を生み出すものではない、ということになる。
法師の説によれば、”可・不可は一条なり”と、それならば、なにを善というのか?”まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし、誰か知り、誰か伝えん?”と。”これ、徳を隠し愚を守るにはあらず”つまり、最初から賢愚・得失の境地にいないからである。というのである。
ここまでくると、こうした思想は、人間社会の規範を超えた宗教的人間観、宇宙観ともいうべきものではないだろうか?
こうして法師の結論は、迷いの心を持って、名誉だとか、利益だとかを追及しても無益なことに過ぎない。万事はすべて”非なり、言うに足らず、願うに足らず”ということになるのである。
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