日記:10月17日、月曜日、随想徒然草とともに(21)

相変わらずの曇り空、七百数十年昔の鎌倉の秋空は、そして京の秋空は、どうだったかしら?歴史に名高い元寇、南北朝時代についての後世の評価憶説はさまさまだが、考えてみれば私達の世代も、当時の歴史観に、揉みくちゃにされた幼少期を過ごしてきたと思う。
 おとなたちに率いられ、わたしの郷里からは、ほど近い吉野詣でをするやら、”青葉茂れる桜井の”と懸命に歌い、忠臣、楠木正成は湊川の戦いで、息子正行は四條畷で、兄弟刺し違えて自害、と涙して語る教育者などに洗脳され、無謀な戦いに突入した
政府の言動に、なかば引き廻され、やがて1945年、広島、長崎に原子爆弾が投下されて生き地獄の様相を見聞きし、ついに連合国に敗北をみとめた政府、残された小国民は、大都市部の大半が焼け野原の中で、それまでの教科書の墨塗りに専念させられる、という時代をくぐり抜けてきたのである。しかも、もう少し上の世代の青年たちは、戦場に駆り出され、南海の島々などで筆舌に尽くせぬ苦闘の末、若い命を落とし、あるいは、特攻隊に選抜され、万歳3唱に送られれて、敵軍めがけ自爆する、という壮絶な死をとげた、そういう時代を生き延びてきた。
 あれから数十年、かえりみると、現在の日本の復活は夢のようだが、人間の生命力の限りない強さは、究極的には底に秘めれた宇宙の霊、兼好法師もいうように、天地の霊と繋がり合うエネルギーによるものなのかもしれない。
 それはともあれ、その法師が、淡々と回顧する貴重な自賛に、ひとまず目を移してみたいと思う。
 自賛は、さきに述べたように、白河院の御随身近友という、競馬の名手とうたわれた人物の、馬芸に関する自賛にならう、というかたちで述べられる。多少嫌味なふしも無きにしもあらずだが、その騎手の七箇条なる自賛そのも現存していないから内容の詳細はわからないので、そこは素直に法師の自賛に耳を傾けることにしよう。
 まず法師の自賛の第一は、同じ馬に関する話である。
 舞台は春、花の季節の京の都で、多くの知り合いと連れ立って花見をしていたところ、最勝光院のあたり、(といわれても、ぴんと来ないが東山のあたりにあった名刹)の近くまで来たら、ひとりの男が馬を走らせるのを見た。それを見て、法師は皆に「あの騎手は、もう一度馬を走らせたら、馬は倒れ、かれは落ちるに違いない、しばらく見ていらっしゃい」と言って立ちどまって見ていた。やがて、かれはもう一度馬を走らせ、留めたところで馬を引き倒し、かれ自身も泥土の中に転がり落ちた。わたしの言葉が間違いなかったことをみんな感心したのだった、というおちで、法師はそれについて、いつも通り何一つ說明はしない。自賛は、独り歩きするに任せて次に進む、それがかれの草紙全体を貫くかれの流儀であり、後世の読者に、一種独特の得難い空白と余韻を残すことになっている、と感じる。続いての自賛は、ずっと趣きが変わる。それも、この草紙の特色の一つでもある。



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