徒然草をひもといて 5章㉘188段続

 人は生きていくうえで、抱いた夢を実現し、事を成し遂げるには、いかなる心がけ必要かを諄々と説いてきた法師は、まずふたつの例を挙げる。   
 最初の例は”碁を打つ人”で一手もいたづらに無にせず、相手に先立って小さな利のある石を捨て、大きな利のある石を取るようなものだ。その場合三つの石を捨て、十の石をとるのはやさしい。けれども十の石を捨てて、十一の石をとるのはむずかしい。一つでも利の大きい方をとるべきなのに、石が十までになってしまうと、惜しくなって、それほど利のある石とは替えにくくなる。これをも捨てず、あれをも取ろうと思う気持ちが、あれもとれず、これをも失う道となる。
 私の父は碁が好きで、わが家には始終、父の友人や親戚の伯父たちが来て、碁盤を囲んでいたが、兼好の時代からこうした遊びがあったのかと、そぞろ懐旧の思いにとらわれたが、人生は遊びではないだけに、なおさら、身に沁みるたとえではある。
 今一つの例は“京に住む人”の話である。東山に急ぎのようあって、やってきたものの、西山に行った方がよかったと思えば、門口から引き返して西山へ行くべきである。
 ところが、東山で「ここまで来たんだから、ここでの用事をまず言ってしまおう。別に日も決めていないから、西山のことは帰ってからまた改めて計画しよう」と思う。
 よくあることだが、この一時の怠り心が、とりもなおさず一生の怠りとなるのだ。ゆえに、これを怖れなければならない。と説く。
 今日のところはここまでにするが、これに続いて法師の説諭はいっそう手厳しくなる。そしてそれは、現代でも何かを成さんと志す者にとって、おおいに学ぶべき大事であるかもしれない。

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