徒然草とともに 3章 ⑳ 81段、 82段

 これまで、それぞれ抜き書きながら一段か、2段程度を読み進めてきたけれど、だらだらしないで、四月中には終えられるよう、できれば、ほぼ数段づつ、まとめて読んでいこうと思います。 
 81段と82段は、法師が身の周りのものたちに投げる、垢抜けした美意識を、83段から86段は、人間社会をじっくり眺めている、彼一流の見識が、嘘偽りない筆で、書きしるされている。
 これらの節の前半は、現在、世界中のひとたちに、もてはやされている日本流美意識が、彼の時代に、すでにほぼ形成されていた、と知らされる興味深いくだりだと思う。
 
 81段は、屏風・障子などに描かれる絵や文字の詮議である。”かたくな”、という語は兼好がよく用いる表現で、ここでは”浅薄で見苦しい”、という程度で使われているらしいが、この際、そうした絵や文字を飾っている持ち主のあるじまでが、つまらない人物に思えてくる、というのでのである。

 こうしたことは、実は私も、かつてよく経験したので、兼好の時代から、京の都でも、すでに、こんなことがあったのだろうか、と不思議な親近感を覚えた。

 そして、こんな場合、置いてある調度類にも幻滅させられることがきっとある、というのにも共感、そしてとくに、上等なものを持て、というのではないが、いたまないようにか、品のない武骨な風に仕立てたり,珍しくみせようと、おかしな装飾などつけたりして、わずらわしい造りをするのはいただけない、古めかしくても、ごてごてしてない、質の良いのが好ましいということばには全く同感である。

 続く82段は、今では日常見られない羅を表紙にした書物や、螺鈿で装飾された巻物の話、書物の天地の糸がほつれたり 巻物の軸の螺鈿の貝が落ちたりしているのは、むしろ味わい深い、といった兼好法師の知友だった頓阿という歌僧の言い分は、法師ならずとも、すぐれている、と感心したし、仁和寺の高僧、弘融僧都が「物を必ず完璧にととのえようとするのは、つまらん者のすることで、不揃いなのがよい」といわれたのもすばらしいと感動している兼好法師にも共感した。

 また、こういう次第で、すべて、何事でも整然としているより、どこかやり残して、そのままになっているのが却って趣があってほっとする。と述べ、ある人が「内裏を造営されるにも、必ず未完成のところを残しておく」と申されたが、先哲が著した内典 (仏典)や  外典にも、章段が欠けているのが随分ある、と書いているが、現代では、この中世の美学は必ずしも、肯定できるものではないかもしれない。
  しかし、わざと、ちょっとやり残しておく、というのは、芸能の世界や、文芸や美術の世界では、一種の美学として許されるような気もしないではない。                        


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