徒然草をひもといて 4章(38)第137段

 137段は、流れるようなリズムで、四季折々の自然に添いつつ、都の風月を愉しみ、心情を吐露する磨き込まれた名文で、この巻のなかでは、最も長く、古来愛誦されてきたであろう段で、あれこれコメントするよりは、どうかご自由にお読みになってください、…という気持ちで、2,3日過ごしてしまったが、なんとか全体をすこし小分けして、読んでいき、この中世日本人一流の美意識、自然観のもろもろを辿ってみようと考えた。 
 まず書き出しは、そもそも桜は満開のとき、月は雲ひとつない夜空に皓々と輝く満月のときだけ、鑑賞するものであろあうか?というアマノジャク的疑問調ではじまる。
そして、雨空にむかって月夜を偲ぶも、家のうちに籠もって春の過ぎゆくのも知らずにいるのも、しみじみとした情感がある。そろそろ咲きそうな花の梢、散り敷いた庭の風情などこそ見どころが多いと述べたてる。歌の詞書きにも「花見にきたけれども、もう散ってしまっているので」 とか「さしつかえあっていかなくて」などと書いているのは、「花を見て」というのに劣らない風情がある。このように花が散り、月が傾くのを惜しむ人情は当然のことながら、頑なな人は「この枝も、あの枝も散ってしまった、今は見る値打ちもない」などというのだ。と批判する。 とまあれ、月や花に寄せる古人の思いは、一様ではなく、それぞれ情感がこめられていることを、ことこまやかに分析してみせるのであるが、現代でも、月、や、桜は、ひとびとには、じつに身近な愛すべき自然の風物である。古人の風流にはおよばぬながら、類なく美しいものとして子供の頃から親しんできた。
 私はふと「雨降りお月さん……」という童謡を思い出した。


 


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