日記:10月19日水曜日👌随想、徒然草とともに(23)

 小学校唱歌で、今も忘れられない歌が幾つかあるが、ひろく知られ、今でもしばしば歌われることのある名歌も数多い。
 そのなかで、さほど有名ではなく、今は殆ど忘れ去られているかもしれないが、大好きな歌がひとつあった。
 それが、岡野貞一作曲の”児島高徳”である。歌詞は国文学者高野辰之で、ふたりはコンビを組み、私達の世代が愛し、熱唱したかずかずの美しい唱歌を世に送ったが、わたしはネットで調べるまで、それらが作られた裏の事実はなにも知らなかった。
 しかし、これら日本の戦前の小学校唱歌にまつわるわたしの身辺の因縁話は、ほかにもいろいろあるので、いづれ別の機会に書いてみたいと思う。
 それはともあれ”児島高徳”の歌の内容と歴史的意味について、少し脱線して書くことを許して頂くと、彼はあの当時、美作(いまの岡山県津山市)の一武将だったが、後醍醐天皇が、志ならず、隠岐の島に配流されると知り、途中の、やはり現在の津山市院庄にあった行在所を襲い、後醍醐天皇御身柄をひそかに奪還しようとしたものの、果たせず、庭内の桜の幹に、自らの熱い志を、中国古代の呉越の戦いになぞらえ、10字の詩句で書き残した、という史実に基づく格調高い歌なのである。行在所を護衛する教養のない兵士たちには、その詩句の意味が解らず、後醍醐天皇御一人、意味を深く感得された、という故事を謳ったものだった。
 太平記が書かれたのは、14世紀末ころである。兼好法師はおそらく、すでに世になく、あらかじめ、この事実を知っていたかどうかは、わたしは知らない。
 ともあれ、徒然草の第98段に書かれた文言を読むとー尊い聖者の言い残された言葉を書き留めて集めた一言芳談という草紙によれば「仏道を願うというは、別のことなし、いとま(暇)ある身になりて世のことを心に懸けぬを、第一の道とす」とある、ほかに書かれたもろもろはさておいて、同感だーという意味のことを書いているから、多分、都の片隅で、そういう風に世の動きを眺めていたのではないだろうか。
いずれしても、次は本題に戻ることにする。


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