徒然草をひもといて 5章⑬157段  筆をとれば・・・心は必ず事に触れて来たる・・    

 筆を手にとれば物を書こうと思い、樂器を手にすると何か音を出したいと思い、盃をとると酒を飲む気になり、賽を手にすれば賭博をしようかと思う、心は必ず事物に触れて動くものである。それゆえ、かりそめにも不善の戯れは”なすべからず”である、と。それゆえに、ほんの少しでも佛典の一句(現代ならば、聖書や、哲学書などもあてはまるか?)を見ると、なんとなく前後の文も読むものだ、と。こうしたことで、突如、こころの目が開かれて、多年の非を悟って改めることもある。かりに今、その文をひろげていなければ、そういうことを悟っただろうか。ゆえに、これがすなわち、”機縁を得た益”ということなのだ。
 人は信仰心がさらになくとも、仏前で数珠を手にして経を読めば、怠けながらでも、善業が自然に実践できる。また、集中力がなく、雑事に気をとられている散乱している心でも、座禅用の縄を張った木の床、縄床(じょうしょう)に座れば、知らず知らずに禅定(ぜんじょう、内省瞑想し、心を統一したる状態)に至るであろう、と説く。ここからさき、少し言葉では難しい理論で「事理もとより二つならず、外相もし背かざれば、内証必ず熟す」というのだが、実は意外に楽観的な意見なのである。つまり、現象と真理は、先に述べたように、もともと一体である。ゆえに外見が道理に背いていなければ、内面の悟りも必ず実現する、という意味なのである。
 つまり仏前で数珠を手に経を読むという行為については、いちいち不信を云いたててはならない。むしろ、これを敬い尊重するがよい。という話なのである。
 現実主義の兼好法師ならではの説である。しかし、ものごとは、形から入るのがよし、というのは、意外に心理学上でも通用する考えではないだろうか、しかもそれは、昔から、型を尊重する日本文化の伝統的な考え方として、いまに受け継がれてきた象徴でもある、と云えよう。

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