徒然草をひもとく 4章 (39)続137段

 “よろずのことも、始め終わりこそおかしけれ” え、それどういうこと?
 じっくり読んていくと、まず男女の情も、夢中になって逢って睦みあうことばかりを言うものではない、逢うことなく終わってしまっ悲しみに浸り、あだだった愛の契りをかこち、長い夜をひとり明かし、いまは遥か遠い人を偲び、荒れ果てた浅茅茂る家で、昔を思い出す、というようなことこそ、真に色恋を知ると言えよう。と。まさに恋の達人ならでは、の発言ながら、現代も、遠い昔のみやこびとならずとも、思い当たる人はあるに違いない、と思われる心に沁みる言葉に続いて、“望月のくまなきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるようにて”と続く文は、もう現代語などに直さず、朗唱してください、と言いたくなる。夜明けの空に、深い山の杉の梢の間に見えたかと思うと、さっと降り出す時雨に雲間に隠れる様子など、“またなくあわれなり”ここでいうあわれ、は感動的という意味であることは言うまでもない。さらに、椎や白樫の濡れたような葉の上に月の光がきらめいているのこそ、身に沁みて「風流が解る心ある友でもいてくれたら」と都が恋しくなるだろう。と、まさに「配所の月」の思い入れにも心を寄せたくだりである。
 時代はまさに権力者たりとも有為転変なきにしもあらず、法師にしても、都の片隅で、ひとり、終わってしまった恋、雲間の月、散り果てた花などを、夜ごと心に沁みて想う日々…だったかもしれない。



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