徒然草とともに 2章 ㊹

 53段と54段は、どちらもページ数にして2ページくらいになる短編小話なので、そこで起こった悲喜劇の模様は、具体的に再現しないと、よくわからないかも。少しはしょって書き写してみるが、兼好法師は、多少同情は籠めて書いているけれども、当時の仏教界や、それに結びついている権力層の退廃堕落に、いささか批判のまなざしが投げかけられているように思われる。
 
 53段は、修業童子がいよいよ法師になる名残りの会で、酔って余興に足鼎を頭にかぶって踊った法師が、やがて、鼎がはずせなくなり、首や顔が腫れに腫れて、近親者や老いた母が泣き悲しむなか力任せに耳や鼻をこそげるようにしてはづすことができ”からき命もうけて、久しく病みいたり”という結末。

 54段は"寺内で修業中の可愛い稚児を、なんとか誘いだして遊ぼうと企んだ”能ある遊び法師たち”が、趣向を凝らした折り詰め料理を、双ヶ岡の木立の下にに埋め込んで紅葉の葉などを散らして隠し、稚児を誘い出し、楽しく嬉しく遊び歩いた末、くだんの場所で、もったいぶって数珠押しもんで祈りをあげ、木の葉掻きのけたところ、影も形もなくなっていた、誰か見ていたものが盗んでいったのだろう。あちこち探しまわったが、どこにもなく、”言葉もなく聞きにくく、いさかいあい”、腹を立てて帰っていった、という話。
 "あまりに興あらんとすることは、必ずあいなきもの(無様な結果になる)ものなり、というのが、この2話の失敗談を結ぶ言葉である。                                                 
 
 出家者とはいえ、寺も持たない自由な身で、ず、で当時の仏教界の

  


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