46:一茎の葦;グレン・グールドが愛読した夏目漱石「草枕」⑵

 明治日本の文人夏目漱石と、昭和生まれで西欧の天才ピアニスト、グレン・グールドが、互いに精神世界で共有した感覚は、ひとくちにいえば、芸術の世界で生きるためには、四角四面の世に、従っていくのは、いかにしても生き辛い、”してみると四角な世界から常識という名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう”と考える。

 そこで、”ならばその一角を”摩滅して、三角の世界に住む”しかない”というわけで、擦り取った一角を常識と呼ぶならば、それは、かれら芸術家が住む美的世界に入れるわけにはいかない。という境地に達し、つまり”天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づき難しとなすところにおいて、芸術家は無数の琳瑯を見、無上の宝ろを知る。俗にこれを名づけて美化と言う。その実は美化でも何でもない。燦爛たる彩光は、炳乎として昔から現象世界に実在している”という結論に至る。

 一人の有識の知人の好意で、漱石の「草枕」という作品を知ったグールドであったが、思いがけず、この東洋の画工が、選り抜きの詩的表現を連ね堂々と述べ立てる(もちろん翻訳文では、もっと噛み砕かれていたであろうが)文を読み、自分の常日頃感じているところについて、まったく同感の士による理論的裏付けを見出した思いで、「草枕」翻訳題名「三角の世界」を愛読したのに違いない。

 しかもこの作品はさらに、同じような超詩的な表現で、具体的に芸術の本質に迫る説明を付け加える。それは、さきにも触れたが、すべて芸術が見出す美の要素は、元から現象世界に実在しているにもかかわらず、ひとびとが世の煩わしさに縛られ、成功だの、失敗だの、名誉だのという世俗の関心事に心を奪われて、それに気がつかないだけである、という一節である。

 わたしは、はからずも、かつてミケランジェロが、かれの彫刻の見事さ、美しさを誰かに褒められたとき「私は、ただこの石のなかに実在するものを彫り出しているだけです」と答えた、という逸話を思い出した。

 博覧強記の漱石のことである。あるいはかれもこのエピソードを知っていたかも知れないが、この主人公はおなじ意味のことを、別の表現で考える。

 つまり、世人は、いつもいつも世俗にとらわれてせかついているゆえに、たとえば”ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである”、と。これもなかなか卓見であることは間違いない。

 グールドが、その指先から生み出す音の世界から、これまで、だれも気づかなかったようなバッハやブラームス、ワーグナーやシュトラウス、シエーンベルクの響きの奥深い美がほとばしり、聴く者の耳を魅惑し、陶酔させる力を持つことは、「草枕」の主人公の主張する芸術の力の真の意味の解明において、充分証明されたことになる。グールドがこれを繰り返し読み、生涯座右に置いたというエピソードは、わたしにも十分うなづけるのである。


 

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