日記:10月20日木曜日☀、随想、徒然草とともに(24)

 草紙の第238段について、22番、23番で、やや、脱線してしまったが また本題の法師自賛の項に戻ろう。2番目の自賛は、繰り返すと、皇太子(のちの後醍醐天皇)が、論語の中のさる文辞に心を留め、即近の大納言が、どの巻にあるか探せと申しつけられたものの、探しあぐねて、途方にくれておられた場に行き逢い、とっさに教えてあげ、安堵させた話だった。 
 ところが、法師は、こんなことは日常茶飯事、子どもにもできる話と、あっさり言ってのけたうえ、昔のひとは些細なことでも自賛した、例えばこんな例もある、と次の話題にとりかかるのである。
 まずその俎板にあがるいにしえ人は、およそ、法師の時代より、一世紀むかし、都の貴人たちの世界で、和歌を詠むことで指導的な立場にあった大御所、小倉百人一首の選者のひとり、藤原定家卿である。頭脳明晰、なみはずれた美的センス、やや過剰な自意識等で、悩み多い人生を乗り切ってきて、話題にも事欠かない異才との対決、といえば大袈裟な話になるが、少なくとも、いささかの対抗意識に、軽侮の思いをまじえたまなざしで、定家卿の自讚のエピソードを語る。
 京男はこれやから、と、呟いたりしながら、法師の語りに全面的に共感はできない思いで読み進む。神経質で怒りっぽかったことでも逸話を残している定家卿、もし、この草紙を読むことがあれば、どんな反応をみせたかな?と、また脱線したくなるが、そこは遠い昔の話。ともあれ、どんな話かというと、卿が仕えていた後鳥羽院(上皇)が、あるとき、「歌を詠むとき、一首のうちに、袖とたもとを同時に入れて詠んだら悪いだろうか?とお訊ねになった。私は即座に浮かんだ古歌「秋の野の草の袂か花薄(すすき)穂に出てて招く袖と見ゆらん」とございますから、差し障りはございません、とお答え申しあげることができた。たまたま、ちょうど本歌を覚えていたのだ、歌道の神のご加護だ。ラッキーだった」などと大袈裟な書きようだ!と、書きつらね容赦ない。
続いて、九条伊通公なども、公に提出する上申書に、たいしたこともない項目を書き連ねて自賛されておられる、、、と、まあこういう調子に並べたてて批判したうえで、次なる法師自身の自賛に移ることになる。そして、それは、なるほどなかなか見事な話ではある。という次第。
 だが、こちらも、少々疲れてきたので、今日はこのへんで兼好じいさまとお別れ申しあげることにする。


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