徒然草をひもといて 5章㉚189段今日はこのことをなさんと思えども…

 誰しも経験していることと思うけれども、わが法師も同じ,”あらぬいそぎ、まず出できて、まぎれ暮らし”ということになり”待つ人は障り有りて、頼めぬ人は来たり”・・”日々に過ぎ行くさま、かねて思いつるには似ず、一年の中もかくの如し”、どころか、やがて”一生の間もまた、しかなり”ということになる、と。
 しかし、ここで法師は筆先を一変させて云う。
 とはいうものの、かねての思惑がみんな違うかと思えば、そうでもなくうまくいくこともあるので、物事は、いいとも、うまくいかないとも定めがたいものだ。だから、すべて物事は、”不定(ふじょう)なり、とあらかじめ心得ておくこと”つまり、あてにならない、と心得ていることのみ真実で、はずれることはい。と断定する。
 確かにその通りではあろうが、そんな心がけでいたら、たいして希望ももてず、なにか成し遂げようとする気も湧かないのではないか?
 仏教が教える不定心に徹するのは、この世ではなかなかむづかしいことではある。

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